3 町村合併(1)
 戦後民主化の一環として地方自治の強化が進められるなかで、市町村が供給すべき行政サービスの範囲は飛躍的に拡大しました。そのため、小・中学校や公民館など諸施設の整備、職員数の増大とインフレによる大幅な人件費の上昇がおこり、さらに相次ぐ災害にともなう復旧土木事業支出がかさみ、弱小自治体では担うことが困難なほどの歳出の膨張がみられるようになりました。

 政府はこうした情勢にかんがみ、1953年(昭和28)9月、町村合併促進法を三か年の時限立法として公布し、全国約9600の町村数を3分の1とすることをめざしました。福井県では、53年11月、国の合併実施計画にそくして町村合併促進基本方針が決定され、人口8000人未満の140町村のうち104町村を減らすことを目標として合併指導を開始しました。

 合併促進法が失効する56年9月末には、同法公布時点の4市18町128村から7市18町24村となり、福井県における国の計画目標は100%達成されました。さらに県は、16町村を未合併町村として、促進法失効にともない制定された新市町村建設促進法のもとで、8つの合併ケースについて知事勧告を発令し合併を促しました。しかし、上志比村の志比村編入、国見村・越廼村・殿下村の合併、織田町・宮崎村・白山村の合併は最後まで紛糾し、結局合併案は葬られることになりました。

 このように、結果的には合併はおおむねスムーズに実施されたようにみえますが、中央政府が県を通じて強力に推進した合併計画には、地域の事情や住民のさまざまな利益に抵触する場合が多く、合併のほぼすべてのケースで紛争が発生しました。県では特定の町村で合併が紛糾する場合には、県の試案に沿って隣接町村の合併を先行させ、合併の既成事実をつくることを急ぎましたが、逆に当該町村の住民の対立感情を悪化させる場合もありました。また、いくつかの自治体では、新町村の成立後も、このときの紛糾が内紛の火種となって行政が揺り動かされるケースがみられました。

 合併推進の最大の目的は自治体財政基盤の強化にありましたが、合併が逆に自治体の財政難を増幅する要因となった点も否定できません。多くの旧町村では、学校建設や災害復旧事業のために正規の起債を上回るヤミの負債を抱えており、また合併を見込んで事業に着手し負債をふくらますこともしばしばで、新自治体には予想外の負債が引き継がれることになりました。また合併の条件として、さまざまな地元向け事業の実施が新自治体への要望として掲げられました。このため、成立直後から財政危機に陥る市町村が続出したのです。はやくも56年12月には、地方財政再建促進特別法の適用再建団体として県内10市町村が指定され、新自治体は多難な道のりを歩みはじめます。
    1960年(昭和35)の県内市町村
    ▲1960年(昭和35)の県内市町村
             『福井県史』資料編17による。 拡大図 85KB

    南条郡王子保村の合併反対陳情デモ(1954年)
    ▲南条郡王子保村の合併反対陳情デモ(1954年)
    武生市への合併に反対する王子保村民は、王子保村議会
    のリコール運動をはじめた。6月28日には、県庁での合併反
    対陳情デモを行うが、翌日羽根副知事のあっせんで合併に
    合意した。                      福井県議会蔵
 勝山市制祝賀パレード(1955年)
 ▲勝山市制祝賀パレード(1955年)
 1954年(昭和29)9月1日、勝山市制が施行された。これを記念し、勝山市本町
 を中心に盛大な祝賀パレードが行われた。               勝山市蔵

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