14 輸出羽二重業の躍進(1)
 明治後期を通じて、絹織物は、綿糸・綿布とともに、生糸につぐわが国の重要輸出品の地位を維持しましたが、その大半を占めたのは福井県を筆頭産地とする羽二重でした。

 明治20年代末以降、福井市内をはじめとして、吉田郡・今立郡などの羽二重先進地や坂井郡春江村に代表される新興産地では、多数の零細な機屋がのなかから、しだいに職工数10〜20人を抱える手織工場がいたるところに登場し、なかには数十人から100人を超える大規模な工場も現れました。こうした機業家たちのなかには、産地ごとに「社」とよばれる同業組合的組織を作り、女工の賃金協定を結ぶほか、羽二重の共同販売、競争入札を行うなど、商人に対して取引上の自立をはかる動きも目立つようになりました。

 こうした機業経営の拡大を支えたのは、織物金融機構の発展でした。生糸商は機業家に対して生糸売却代金の延払いを認めて信用供与を行っていました。他方、生糸・羽二重の荷為替付取引の発展を背景として、福井市所在の銀行は、生糸商に対して荷為替を取立てるかたわらで生糸担保貸付を行い、羽二重商に対しては荷為替を取組むというかたちで、商人に対する資金融通を行ったのです。

 このような織物金融機構の中心的な役割を果たしていた銀行は、地元士族の出資経営する第九十二国立銀行(1897年に普通銀行に転換)でした。しかし1900年(明治33)の恐慌で同行は破綻をきたし、大阪に本店を有する百三十銀行、富山に本店を有する十二銀行といった県外銀行の福井支店が取って替わることになります。1899年に県内の地主層により設立された福井銀行が織物金融で業績を伸ばすのは、第一次大戦の好況期を待たねばなりませんでした。
わが国の絹織物輸出額(1891〜1925年)
  ▲わが国の絹織物輸出額(1891〜1925年)
  1903年(明治36)下半期の調査によれば、わが国の羽二重輸出の6割が越前産で、
  そのうち5割がフランスへ、残りはアメリカ、イギリス、英領インドに輸出されている。
  『横浜市史』による。
北陸製織合資会社(1909年)
▲北陸製織合資会社(1909年)
北陸製織合資会社は、1907年(明治40)3月、足羽郡木田村に設立された毛織物
を中心とする機業場で、100人をこえる職工を抱えていた。林立するバッタン手織
機1台ごとに女工がはりつく典型的なマニュファクチュアである。
                   『行啓記念写真帖』 福井市立郷土歴史博物館蔵
松井機業場  松井機業場(1909年)
 松井機業場は、福井市の生糸・羽二
 重商松井文太郎の経営する職工35人
 の機業場。6馬力の電動機1台を据え付
 け、写真上方の駆動軸から各力織機に
 ベルトで動力を伝えている。上のマニュ
 ファクチュアの写真と対比すると光景の
 違いがよくわかる。
             『行啓記念写真帖』
       福井市立郷土歴史博物館蔵

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