13 北海道移住(1)
                   北海道庁殖民部編の移住手引き
                   ▲ 北海道庁殖民部編の移住手引き
                   なかは、折込みの全道地図・渡航案内図となっており、裏面には、具体的な入
                   植の手続きや運賃、気温、農作物の播種収穫季節表などが詳細に示されてい
                   る。                                  福井県立博物館蔵
 福井県は、明治前期から県外への人口流出が全国的にも多い県でした。北陸地方全般が同様な傾向にあって、第1回国勢調査(1920年)から、福井県生まれの人の現住県をみると、2割をこえる人が県外に住んでいました(全国第5位の流出率)。

 これを道府県別にみると、この時点では北海道がもっとも多く、大阪・東京・京都の3大都市をしのぐ4万7000人もの福井県人が移住していました。

 福井県から北海道への移住が本格的に始められるのは、明治10年代後半からといってよいでしょう。県内での屯田兵の募集もこのころから開始されますが、1886年(明治19)に設置された北海道庁が積極的な移民招致策を進めた時期ともかさなり、明治20年代を通して移住者数が急増していきました。

 このなかには、同郷人がまとまって移住する団体移住がふくまれていました。三石郡歌笛村へは大野郡を中心に入植し、明治30年末には100戸におよぶ「越前村落」をつくっていました。道庁の制度では、30戸以上の同郷人の団体が、3か年以内に移住する場合に1戸あたり1万5000坪を予定存置できることになっていたため、これには坂井郡磯部村、南条郡神山村などから出願し、空知郡栗沢村、天塩郡遠別原野などへ団体移住しています。

 これらの団体移住は、経営の困難さから最終的に土地取得ができず解散したものも少なくなかったのですが、先発の同郷人からの情報と人脈をたよりに、後続の移住が行なわれていました。また、福井県関係者が経営・管理する農場へ小作農家として移住する場合もみられました。こうしたことから、北海道移住者を職業別にみると、農業者が5割から多い時には8割も占めていました。
 北陸地方からの移住は、1897年(明治30)・98年、1907・08年の2つのピークがみられ、福井県でも大規模な水害の後の1897・98年には、大野郡や坂井郡を中心に6000人をこえる人が北海道に渡っていました。こうした大規模な災害が新天地を求めざるをえない要因となっていたことがわかります。

 大正期以降、北海道への移住者数は漸減し、かわって、東京・大阪・京都などの大都市への移動が増えていきます。
福井県からのおもな団体移住地
        ▲福井県からのおもな団体移住地



三石郡三石村の歌笛尋常小学校(明治後期)  三石郡三石村の
 歌笛尋常小学校(明治後期)
 北海道大学附属図書館北方資料室蔵

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