8 日清・日露戦争と県民(2) | |
▲新聞『福井』の号外(1894年10月28日) 福井県立博物館蔵 |
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これに対して日露戦争(1904〜05年)は、戦死・戦病死者の数からみても、また戦費の多さにおいても県民にせまった犠牲は、はるかに大きいものでした。短期的な両軍主力の会戦によって勝敗が決まることはなく、機関銃・連発砲などの火力兵器が新たに導入された人的・物的な消耗の激しい長期戦となりました。北陸3県と岐阜県出身の兵士によって構成された第9師団は、旅順攻囲戦に終始参加し、戦死者の比率が全国でもぬきんでて高くなりました。鯖江歩兵第36連隊の死傷者は、約5500人にものぼり、のちにその勝利の日が「陸軍記念日」とされる奉天会戦後の健在者は、わずかに251人にすぎませんでした。 召集された兵士たちは、兵営から戦地からまた凱旋途中の港から、近況をしたためた手紙を出しており、詳細な戦況とともに家族やふるさとへの思い、さらには日本や朝鮮・中国などアジアの民衆に対する感想なども綴っていました。 当時の経済力をはるかに上回るばく大な戦費は、非常特別税や県民の国税負担の3倍にもおよぶ国債購入割当として課せられました。疲弊する農村対策として、町村財政基盤の強化と勤倹貯蓄を督励する内務省主導の地方改良運動が開始され、村むらに在郷軍人会・青年会・処女会・婦人会などが組織されていきます。 |
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日露戦争従軍兵士からの軍事郵便 大野郡羽生村の笠松宗右衛門は、兵士や 遺家族への慰問に尽力したため、笠松家に は日清・日露戦争に関連して500通をこえる 郵便物が残されている。宗右衛門にあてた 餞別や慰問への礼状(右)とは対照的に、子 息宗一にあてた手紙(左)には、同世代の青 年の目を通した戦地や植民地のようすが率 直にしたためられている。 美山町 笠松常和氏蔵 |
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鯖江歩兵第36連隊(1909年) 日清戦争後の軍備拡張政策によって、創設された 第9師団(金沢)のもとに設置され、1897年(明治30) 8月、鯖江町に移転した。翌年3月には敦賀に歩兵第 19連隊が置かれた。 『行啓記念写真帖』 福井市立郷土歴史博物館蔵 |