7 輸出羽二重業の勃興(2)
 ところで、先にみたように、羽二重は大量に需要される半製品として、安価で均質であることが求められました。そのためには産地における精練業の確立と製品検査制度の整備が不可欠でした。

 精練は、89年4月、京都で練工場を営んでいた金山(黒川)栄次郎が福井の織物商上田伊八とともに京越組を創立したのが本格的なはじまりで、その後市内および郡部の各産地にも相次いで練工場が創業されました。また、製品検査制度は、92年に県絹織物同業組合が松竹梅の三等級制度を整備し、組合商標のない製品の売買を禁止して、翌年には各産地に検査所・出張所を置き、練工場から製品を運ばせて検査を行うことになりました。

 その後も精練技術の改善や製品検査制度の充実が積み重ねられることにより、「羽二重王国」としての福井県の地位は揺るぎないものとなっていったのです。
バッタンとジャカード 『福井県下商工便覧』
▲バッタンとジャカード
バッタンはひもを引く操作だけで緯糸をおさめた杼を左右に飛ばすことのできる装置、ジャカードは紋紙(パンチカード)を用いて模様を織る装置。1877年(明治10)に士族の出資により組織された福井織工会社では綾織ハンカチーフと傘地が織られたが、絵の中央の高機にはバッタンとジャカードが取りつけられている。羽二重の伝播に先立ってこれらの製織技術が普及していたことも、羽二重製織の急成長の重要な背景であった。 
『福井県下商工便覧』 福井県立博物館蔵
成業証(1894年)   成業証(1894年)
   福井県立博物館蔵
羽二重商(メーソン商会) 羽二重商(堀越商会福井出張所) 羽二重商(西野商会)
▲羽二重商
当初、福井の生糸商が羽二重商を兼ねることにより横浜の輸出商への売込みが行われたが、1891(明治24)、92年に横浜のローゼンソール商会・メーソン商会が福井出張所を設けて直接買付けを始めると、集散地問屋の進出が相次いだ。福井の生糸・羽二重兼営商も取引を拡大したが、西野商会は1900年に福井市に店舗開設後、いちやく産地問屋の雄となった。
 『福井県実業家案内すご録』 大野市歴史民俗資料館蔵
九十二銀行
▲九十二銀行
羽二重勃興期の織物金融は、第九十二国立銀行(1897年、普通銀行に転換)が担った。同行は、横浜から荷為替付で移送されてきた生糸を行内の倉庫に保管し、荷為替の取立と引替えに生糸商に生糸を引き渡したが、このさい、代金未済の生糸を担保に貸し出すなどの生糸商に対する金融の便宜を図った。また、羽二重の集散地への移送のさいには羽二重商の注文に応じて荷為替の取組みを行った。
『福井県実業家案内すご録』 大野市歴史民俗資料館蔵

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