7 輸出羽二重業の勃興(1)
村野文次郎    森山機業場の伝習生   森山芳平
 ▲ 村野文次郎
村野は、1885年(明治18)11月、旧福井藩士で染色技術者の山岡次郎を介して、初めて桐生の森山  を訪ねた。写真は、96年に杉田定一とともに欧米を視察したさいに、ロンドンで撮影したもの。
▲ 森山機業場の伝習生
村野の懇請に応じて、森山は、京都で実習中の高力直寛(前列左)を福井に派遣した。
▲ 森山芳平
森山芳平のもとには、各地から伝習生 が寄宿して、化学染色法や製織法を学んでいた。その技術普及は、桐生産地にとどまらなかった。
群馬県 森山 亨氏蔵 群馬県 森山 亨氏蔵 桐生市 森山 亨氏蔵
 「松方デフレ」が底を脱した1886年(明治19)以降、わが国では急速な近代工業の発展がみられるようになりますが、福井県では輸出向け羽二重製織が始まり、めざましい発展を遂げました。絹織物産額の全国府県順位をみると、87年には第14位で産額の全国に占めるシェアも1.2%にすぎなかったのに対し、早くも92年には第3位、15.4%となり、以後着実にシェアを拡大していくことになります。

 羽二重はいわゆる半製品であり、フランスのリヨンをはじめとした欧米の諸産地で染色・捺染・刺しゅうなどを施し、婦人服地・裏地・ハンカチなどに加工されました。そして労賃コストの低い日本製品に比較優位が生じ、大量に日本から輸出されるようになったのです。

 もともと羽二重は、明治10年代のなかばに群馬県の桐生産品に横浜の外国人バイヤーが目をつけたものですが、彼らはより安価で大量生産が可能な新興産地を探していました。そうした情報が生糸商人からもたらされ、福井の機業家たちは桐生からの羽二重製織技術の導入を図ることになります。

 87年3月、桐生の機業家森山芳平に師事していた高力直寛が招聘され、福井織工会社で3週間にわたる講習会が実施されたのが福井における羽二重製織のはじまりでした。その後、市内の各機業場には伝習所が設けられ、織工たちは仕事に就きながら技術の習得に努めました。福井の士族や商人を中心に機業を経営する者が急激に増大し、さらに90年ころからは勝山、粟田部、丸岡、鯖江など町部を中心に、福井へ伝習生を派遣したり福井の織工を教師として招くなどして羽二重の製織が試みられます。以後、羽二重経営は、士族、商工業者、小地主など、小規模な資金を調達しうるさまざまな階層を担い手として、零細ながらも若干名の織工を抱える独立業者を中心に、県内各地にひろがっていくことになります。
▼ 絹織物産額の上位5府県

絹織物産額の上位5府県

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