6 近代「村」の成立(1)
 明治政府は、「富国強兵」「殖産興業」策の実現のため、国民に納税・徴兵・教育の3大負担を求めました。これには、府県とともに、近世村から近代行政村への転換を図る末端地方行政の整備が欠かせませんでした。

 まず、国民を把握する戸籍作成のため、1871年(明治4)4月、戸籍区を作り、その責任者として戸長を置きました。このとき作られたのが壬申戸籍です。この戸籍区を、徴税、徴兵、小学校の設置などの仕事にまで拡大利用するため、翌年には庄屋などの村方3役を廃止して、いわゆる大区小区制をとります。新しい時代がきたことを知らせるためにも「若狭国遠敷郡竹原村」を「第二大区一四小区一組」とよんだのです。とくに町部では74年、旧町名を統合し、町名も美称をつけて「福井花月町」のように変更しました。

 しかし、自由民権運動が高まりをみせると、政府は政局の安定を求めて、住民の地方政治への部分的参加を認めるとともに、地域の旧慣をふまえた近代最初の地方自治制度を実施します。郡や町村が復活し、「第二大区一四小区一組」はふたたび「遠敷郡竹原村」となったのです。また、府県と町村は自治団体となり、それぞれ府県会、町村会が設けられました。この制度は「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」の3つの法律を中心としたので、三新法体制とよばれました。
  小浜町役場(明治末期)
  ▲小浜町役場(明治末期)
  1901年(明治34)小浜町日吉に新築された2階建ての役場で当時、町長・助役・収入役のほか8名
  の書記と数名の事務雇が勤務していた。多くの村役場ではほぼ半分の規模で事務を取り扱ってお
  り、国政委任事務が増えるにしたがい、かなりの激務となっていった。
         戸長役場の標札
            ▲戸長役場の標札
            1878年(明治11)の郡区町村編制法にもとづく
            戸長役場。福井県ではこの幾久村のように多く
            が近世の村ごとに置かれた。
                           福井市 小沢紀元氏蔵

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