5 「文明開化」の波(1)
                     太陽暦
                     ▲太陽暦
                     太陽暦の採用により、「明治5年12月3日」が「同6年1月1日」と改められた。
                                                      福井県立博物館蔵

 明治新政府の至上目標であった「文明開化」は、地域の社会生活に大きな変化を求めるものでした。まず「開化」を象徴する風俗に散髪があります。旧来のちょんまげを切り落とし「頭を切り替える」という意味で、散髪を実行することが「開化」を率先して受け入れる指標とみなされたのです。明治初期の敦賀県は、散髪奨励にたいへん力を入れ、地域では拒否する人をとらえて無理やり髪を断つこともあったようです。このことが、1873年(明治6)におきた大野・今立・坂井の3郡騒動の発端の1つになっています。

 つぎに、太陰暦から太陽暦への暦の改編も生活様式の刷新をめざす「開化」の一大施策でした。72年末に太陽暦が採用され、1日を24四時間とする定時法が取り入れられました。しかし、生活のリズムをなす暦や時刻を改めることは、一般庶民にとって容易な問題ではありませんでした。当初は、士族が太陽暦、農民が太陰暦、商工業者が適宜両方を用いることが多かったようですが、時と場所に応じて新・旧2つの暦を使い分けることがその後も長く行われました。
敦賀県布令書(散髪奨励)1
敦賀県布令書(散髪奨励)2
   ▲敦賀県布令書(散髪奨励)
   1872年(明治5)11月16日付の木版布令書(第41号)。この時期は、布令書などの文章に漢語が多く用いられ
   た。右側に読み、左側に語意が付されているが、内容はじつに難解である。当書は、種々の「開化」策が推し
   進められるなか、その趣旨をよく理解し、時勢に遅れることなく進んで散髪することを求めている。
                                                          福井県立図書館蔵

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