4 福井県の誕生(1)
 1881年(明治14)2月7日、若狭3郡と越前敦賀郡が滋賀県から、越前7郡が石川県から分離されて、現在の福井県が成立します。この県域の確定は、現行の47都道府県のうちで40番目であり、全国的にみても5年ほどおそいものでした。

明治政府が中央集権体制を築くためには、江戸時代の複雑に入り組んだ藩領域を整理して、まとまった地域を管轄する府県の成立が、ぜひとも必要なものでした。また、新政府は、鹿児島県や高知県にみられるように、旧藩の実力がそのまま新府県に残されることを嫌いました。幕末以降、松平慶永のもとに独自の地位を築き、明治初年に「公議政体路線」という政府に批判的な立場をとった福井藩の「実力」も同様に嫌われます。一方、譜代小浜藩の明治維新での立場は、会津藩に近いものがあり、また1県とするには小さすぎました。

 71年末に成立した足羽県では、職員はほぼ旧福井藩士で占められ、福井藩の「実力」は維持されます。同じ時期に成立した敦賀県では、職員の大半が旧本保県職員で占められ、実質的に解体された小浜藩とは好対照でした。しかし、2年たらずのちの73年1月、明治政府は足羽県を敦賀県に合併させます。旧足羽県の職員の多くが県庁を去り、名実ともに福井藩は解体されました。そのうえ、新敦賀県の県庁が敦賀にあったため、「越の大山」ともいわれた木ノ芽嶺をはさんで、「嶺南」「嶺北」という地域対立を生み出します。

府県の成立が、新しい地域呼称を生んだ典型的な例であり、背景には福井藩と小浜藩の対抗意識がありました。

 さらに76年8月には、こうした地域対立と、越前7郡の地租改正作業がはかどらなかったことから、政府は新教賀県を廃止します。江戸時代から人も物も京都(上方)への指向が強く、小浜藩が支配していた「嶺南」は滋賀県に、親藩意識の強い旧福井藩を中心とした「嶺北」が、加賀藩域を核とする石川県に併合されたのでした。

 この石川県時代に越前7郡では、杉田定一を指導者とする地租軽減運動が執拗に続けられました。それが一段落した段階で石川県令千阪高雅の建言をうけて、県庁を福井に置く福井県が成立しました。

 翌年より、毎年2月7日には旧福井藩士族を中心に、「置県懇親会」が開かれますが、9年の空白をおいてふたたび旧福井藩を核とする県が成立した喜びの表れです。また、置県1周年に慶永が初代県令石黒務に送った書簡からも、そうした喜びが伝わってきます。一方、「嶺南」4郡にとって福井県の成立は青天の霹靂であり、滋賀県への復県を求める運動が遠敷郡を中心におこり、その後も長く続きます。

 県令石黒は、「嶺南」「嶺北」の融和、いいかえれぼ「福井県民」意識の形成に腐心することになります。それはまた、近代福井県政史の1つの底流を形成します。
  滋賀県との事務引継にかかわる電報(1881年3月1日)
   ▲滋賀県との事務引継にかかわる電報
     (1881年3月1日)
   滋賀県との事務引継では、冬季の悪天
   候のため、木ノ芽嶺がこえられず、石黒
   県令の到着が遅れていることを知らせて
   いる。               滋賀県蔵
  設立当初の福井県の印形
  ▲設立当初の福井県の印形
           東京都 国立公文書館蔵
   福井県の初代県令石黒務
  ▲福井県の初代県令石黒務
  政府は、難治県と予想された福井県の
  県令に、内務省少書記官の石黒を任命
  した。石黒は旧彦根藩士で浜松県権参
  事、静岡県大書記官などの経歴をもつ
  練達の地方行政官でもあった。
福井県置県1周年を喜ぶ松平慶永の書簡
 ▲福井県置県1周年を喜ぶ松平慶永の書簡
 この書簡は、置県1周年を祝して旧福井藩主松平慶永から、県令石黒務と少書記官多賀義行にあてて送られたものである。福井に県庁を置く福井県
 の成立を、この時55歳の慶永は「越前の海の深さよりも深く、白山の山の高さよりも高い」と心から喜んでいる。                  福井県蔵 

←前テーマ→次ページ目次