1 維新と民衆(1)
 1871年(明治4)7月、廃藩置県が行われ、越前と若狭には旧藩の名称を引き継ぐ合計10県の管轄地が置かれました。しかし、それらは11月に至り、福井県(すぐに足羽県と改称)と敦賀県という2つの大きな県に統合されます。このとき、江戸時代の細分化した領地支配の枠組みを取り払い、地域的にまとまりをもった新しい統治体制が築かれたのです。

 これがさらに73年に入ると、足羽県を併合するかたちで敦賀県の拡大が図られ、地域社会では新政策の徹底がより強く求められることになりました。そして、敦賀県政の発足を契機に、旧来の生活様式の改編・刷新を訴える政府や県と、これに不満や憤りを抱く地域住民との対立がにわかに表面化したのです。
 騒動による受刑者の分布
 ▲騒動による受刑者の分布
 「越前国大野外二郡暴動附和
 随行人罪案」(法務省図書館
 蔵)による。 拡大図 39KB
 73年3月、敦賀県の発足直後、大野郡で真宗門徒を中心とする大騒動がおき、その波紋がさらに今立郡、坂井郡へと広がりました。政府や県はこの事件を「暴動」とよび、当時の『撮要新聞』は「無知蒙昧」の徒が引きおこした「一揆」と報じました。騒動の引き金となったのは、政府(教部省)がすすめる教化政策にもとづく宗教の統制、つまり弱小な寺院を廃合し、従来の私的な説教を禁止するという措置でした。これに誰より不満をもった真宗の僧侶や門徒が事件を先導したのです。

 しかし、騒動に加わった多くの人びとは、宗教にかかわる事柄ばかりを問題にしていたのではありません。散髪の奨励や太陽暦の採用、新しい学校教育の開始など、地域住民の側からみれば一方的な新政策の押しつけに激しい憤りを抱いていたのです。大野郡では、政府の方針に従う寺院や学校、また散髪を行なう者などを「ヤソ」(江戸時代に禁制とされたキリスト教徒)とよんで、これらを忌みきらう風潮が広がっていました。それが、ついに「ヤソの退治」を名目にかかげて実力に訴えることになり、大野町を中心に建物の打ちこわしや放火などを行なったのです。

 この騒動には、政府や県によってたいへんきびしい弾圧が加えられました。拷問のすえに、首謀者として死刑に処せられた6名をはじめ、処分者の数は大野・今立・坂井・吉田の4郡で8000名にも達します。当然、拒んでいた新政策の実施も受諾を余儀なくさせられました。このように維新を推進する権力と旧習を墨守しようとする地域民衆とが直接ぶつかりあうことで、新しい時代の社会秩序がより明瞭に人びとの意識に広がっていったのです。
 村境の標識の書き換えを指示した敦賀県の布令
 ▲村境の標識の書換えを指示し
  た敦賀県の布令
     敦賀市 那須伸一郎氏蔵

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