概観 近代
    福井県実業家案内すご録 大野市歴史民俗資料館蔵

 1881年(明治14)2月、越前7郡の地租改正再調査の要求が杉田定一を指導者とする自由民権運動と結びつき、政府とのあつれきを強めるなかで、木ノ芽嶺以北(嶺北)地域の石川県からの離脱が決まり、数年来滋賀県のもとにあった嶺南地域を併合して福井県が置かれました。現行の地方行政区画である福井県の誕生です。

 その後まもなく訪れる明治20年代は、大日本帝国憲法公布や衆議院の開設、産業革命の開始など、明治国家の枠組みと経済基盤が確立した時期ですが、福井県の進路もおおむねこの時期に固まります。とりわけ、1892年(明治25)成立の鉄道敷設法のなかで敦賀・富山間の官設鉄道の優先建設が決まり、北陸線の敷設が実現したことは、福井県に決定的な変化をもたらしました。

 まず、明治20年代初頭に群馬県の桐生から技術移転をうけて嶺北の町部では羽二重製織が普及していましたが、これを契機にこの地域は国内最大の輸出向け羽二重産地に成長しました。集散地横浜との間で生糸、織物の輸送期間の大幅な短縮と運賃の削減が生じ、羽二重の廉価での大量供給が可能となり、鉄道の各駅を中心に、女性労働力に依存した機業地帯が形成されたのです。また、生糸や織物の集結地として福井市の商業・サービス業は大いににぎわい、福井市は地方都市としての発展を示しました。

 一方、この鉄道敷設法の成立は、かつて豪農民権で政府に抵抗していた地主たちが、その要求を地域開発へと集約していく転換点と評価されますが、福井県の政治も、地主を主体とする名望家たちによる、国費・県費事業の地元への誘致をめぐる争いが中心になっていきます。
 
 96年に坪田仁兵衛らの建議をうけて成立した河川法により、1900年から九頭竜川の改修工事が国費の投入により実施され、嶺北の九頭竜川下流地域はこれを契機に福井県の穀倉地帯に生まれ変わります。これに対し、県会で県下のその他の地域の開発に県費を支出せよという要求が高まり、いわゆる「権衡工事」問題がおこるのも、こうした政治の変化を物語っています。
 
 明治末に発行された『福井県政界今昔談』の著者は、県下で行われる各種の選挙について、「腕力競争一転して金力競争となり、投票売買の腐敗選挙が盛んに行はれるやう」になった、これは全国的な傾向であるが「其の殊に甚しいのは我福井地方」と述べています。地域開発による利益誘導を中心にした政治が金権腐敗構造を生み出したのですが、こうした構造は選挙権の拡大とともに、さらに輪をかけて広がっていきます。そして、これと並行して、福井県の官選知事のほぼ全員が、内務省官僚として最初の知事のキャリアを福井県で迎えるというように、福井県に対する「三等県」としての処遇が中央政府のなかで定着することになった点も見逃せません。

 さて、北陸線に遅れること20余年、小浜線の全通は1922年(大正11)となり、嶺南の産業発展は著しく遅れました。昭和恐慌の過程で、嶺北では人絹織物業の隆盛もあり平野部や盆地部を中心に人口が増加しているのに対し、若狭3郡では人口減が生じているのも、嶺北と嶺南の格差を如実に示しています。敦賀港は、第一次大戦期まではロシアとの対岸貿易により繁栄しますが、基本的には阪神地方の裏玄関としての通過点にすぎず、地元後背地の産業発展への寄与はあまり大きくありませんでした。このように、北陸線の敷設は嶺北においてはその商工業や農業の発展を促しましたが、同時に嶺北と嶺南の格差を固定化する結果をも生み出したのです。
                                         
福井県が設置されるまでの県域の変遷
▲福井県が設置されるまでの県域の変遷 拡大図20KB

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