32 福井城下の町絵師・夢楽洞万司(1)
 かつて福井城下では絵馬や天神掛軸などの工芸品を製作する町絵師の集団が活躍しました。江戸中期から明治・大正期にかけての約150年間、「夢楽洞万司」の号を受けつぐ歴代の絵師が営んだ工房があったのです。その活動は、福井県を主に北陸一帯に現存する数千枚におよぶ絵馬の調査から判明しました。

 夢楽洞工房の初代絵師は、「万司仙人」の号を名乗り、はじめは雑俳の宗匠(選者・点者)として頭角を現しました。江戸で「川柳」が人気を集め、選者が前句を出題して付句を応募する万句合の興行が流行した宝暦から天明期(1751〜88年)のことです。越前各地で同様な大衆俳諧、雑俳の句合を興行しています。三都の俳諧師の勢力圏であった地方に地元の選者が台頭し、俳壇の自立化がすすもうとしていたのです。万司が催した句合には、地元越前を中心に北は能登、東は美濃、南は近江・京都・大坂からも投句されています。投句者には、「組」「連」などの同好者仲間を表す名が多くみられ、各地に取次グループのあったことがうかがえます。当初は、この取次網を利用して宗匠万司自筆の絵馬が宣伝されたのではないかと考えられます。
万司選の雑俳句額
                   ▲万司選の雑俳句額
                   選者万司による出題内容を記したあと、入選句(勝句)が披露されている。句の頭にある
                   1文字は、選んだ前句の頭文字や笠付(△)・折句等の手法を略記したもの。句の下には
                   投句を中継した取次所、俳諧仲間、作者個人の号などが記されている。1763年(宝暦13)
                   に奉納された。                             大野市木落 白山神社蔵


  左 入選句(勝句)  右 選者万司の出題部分      ■雑俳のルール
「前句付」とも総称された大衆俳諧、雑俳の出題・応募ルールは、じつに多様であった。掲載した万司選の奉納額では、百人一首、謡の一節から上5文字をとり中・下の句を付ける「小倉(百人一首)付」「諷付」、決められた上の句に中・下の句を付ける「笠付(△で表記)」、その逆に決められた下の句に上・中の句を付ける「沓付」、上・中の上・中・下句のそれぞれ最初の1文字が定められた「折句」(「ツ・ユ・ノ」「ヒ・カ・リ」「ス・ス・シ」の3題)、決められた物の名を多く詠み込む「物尽」(魚・鳥・虫・国等が「魚尽」「鳥尽」「虫尽」「国尽」となる)等が使われている。
 さらに「むすめ十八て、心しよきしよき」から「万司といふは、すさましい名じや」までの15句が、前句題として提出されている。このうち好きな1句を選び五七五の句を付けるのが約束で、これが本来の「前句付」の手法である。

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