31 旅と民衆(1)
 旅は江戸時代の人びとにとって大きな魅力でした。多少の危険はともないますが、日常生活を離れて、普段とは異なった体験ができるからでした。

 これには、伊勢神宮や京都の東西本願寺、讃岐の金毘羅宮、信濃の善光寺、甲斐の身延山久遠寺などの寺社参詣や親鸞など浄土真宗の高僧の史跡をめぐる二十四輩順拝、山中や城崎、有馬などの温泉へ出かける湯治などがありました。越前では伊勢参宮、京都本願寺参りがさかんだったようで、両者を兼ねて行く場合もありました。若狭では伊勢参宮と金毘羅参りが多かったようです。もちろん、これらの行き帰りには奈良・大坂の名所をめぐるようなこともしばしばありました。村むらのなかには講を組織してお金を出し合い、順番に出かけるといったところもありました。旅から帰った記念に絵馬を社やお堂に奉納することもかなりさかんだったようです。

 このような旅の日記や小遣帳・入用帳などの記録(82件)からみると、出かける時期は、当時の農作業との関係もあって、2月から5月にかけて(50件)と7月・8月(17件)に集中していました。要した日数は、参詣だけが目的の場合だと、伊勢参宮が丹生郡大虫村や遠敷郡日笠村から12日、金毘羅参宮が同郡西津村から15日、善光寺参詣は大飯郡本郷村から行きは中山道、帰りは北陸道を通って22日でした。行きや帰りにあちこち立ち寄る場合は相当日数がかかりました。たとえば、坂井郡野中村から名古屋・伊勢・奈良・高野山・大坂・明石・京都などを回った旅では49日、大野郡勝山町から松江・岩国・広島・金毘羅・大坂・高野山・京都などを回った旅は52日、同じ勝山町から善光寺・東北・関東を回った旅は、足の裏にまめができて米沢に療治のため逗留した10日間をふくめて84日を要していました。 
 矢立
  はやみち
  ▲矢立とはやみち
  矢立は先端に墨壺があり、軸の
  部分に筆が入っており、商人の
  必需品であった。はやみちは小
  銭入であり、いずれも身軽な旅
  をするためによく用いられた道
  具である。 福井県立博物館蔵
旅の足跡
旅の足跡
農民や町人の旅のうち、行程や日数がわかる
ものをいくつか選んで例示した。
                   拡大図 62KB
  

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