29 民衆の倫理と女性(1)
 江戸時代前期には、村では百姓たちはまだ中世以来の習慣や信仰にしばられることが少なくありませんでした。諸国有名霊山の神やいろいろな仏に誓いをたてたり、身の潔白や主張の正しさを主張する起請文を作ることがありましたが、これも当時の民衆の心の反映であったといえます。

 ところが、幕藩制社会が安定するとともに、人びとの自覚も高まっていきました。幕府や各大名は封建社会を守るための学問・思想を強制し、庶民にも法令や社会秩序を守るように儒教道徳を説いたことが1つの理由です。しかし、それ以上に大きかったのは民衆の自覚です。百姓たちは田畑を耕し、家を守り、村を維持していくことが大切だと考えました。そのため「公儀の百姓」として自覚し、毎日の生活倫理を確立して生きようとしました。

 そのことをよく示すのが「書置」「遺訓」などとよばれる家訓です。越前・若狭にもいくつもその例がみられますが、早い例は丹生郡樫津村の地主田中甚助が1685年(貞享2)に子どもに残した「書置」です。その内容は教養を身につけ、国の法度を守り、他人と争わない、勤労に励み、生活を質素にして祖先・仏神を尊崇することなど、全19か条にわたっています。地主としての家存続を目標としていますが、各条文は通俗的な道徳を基準にした実践的なものばかりです。

 大野郡中野村の豪農の妻智鏡尼が1792年(寛政4)に書いた「智鏡尼上座遺訓」は、女性の残した家訓として注目されます。彼女は亡き夫の跡を継いで家を守り発展させ、子どもを育てました。その経験と自信に立って、家督を長男忠興に譲るとき、全28か条を書き残したのです。多くは田中甚助の「書置」と似た内容です。なおこのとき、忠興は母のことばを「書添」としてまとめ弟妹たちに与えましたが、そこには女性としての生き方を示す内容も記されています。「女は格別のまゝならぬ身」であるとして、身を慎しむよう強調しています。
白崎村阿弥陀起請文
▲白崎村阿弥陀起請文
1609年(慶長14)、南条郡河野浦の舟寄山の争論にさいし、隣村白崎村の百姓たちが証言を阿弥陀如来絵像の裏にしたため、福井藩の代官へ差し出したものである。
             武生市 中村俊治氏蔵
田中甚助書置(首部)










      ▼田中甚助書置(首部と末部)
          宮崎村 田中史朗氏蔵
田中甚助書置(末部)

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