26 村方騒動と百姓一揆(1)
 百姓は領主の支配を受け、年貢・諸役を負担して生活をしていました。ところが、重すぎる年貢や災害・飢饉などのために生活が苦しく、ときには家がつぶれたり、村が荒れはててしまうということもめずらしくありませんでした。そこで百姓の生活や村を守るためのいろいろな運動がおこりました。

 庄屋が年貢や村の盛(費用)の計算を不公平に扱ったり、勝手に村を運営すると、これをやめさせようとして、一般の百姓と庄屋たちとの間に対立がおこりました。その結果、庄屋を交代させ、新しく選挙で庄屋を選ぶといった動きがあちこちの村でありました。地主が常識以上の小作料を主張したため、地主と小作人が対立するようなこともありました。このような経済的な問題や村の民主的運営を求めて、村の中で行われた運動を村方騒動といい、越前・若狭でも多数おこっています。

 いっぽう、百姓が領主に年貢の引下げや救助を訴え、連判状を作成して団結し、集団の力で強く要求することがありました。このような通常の秩序を越えた訴訟を百姓一揆といいます。

 百姓一揆は全国で約3000件も起きています。江戸の中ごろから増加し、天明や天保の飢饉のころ、それに幕末期に飛躍的に増えます。初めは逃散や越訴という形態が多かったのですが、しだいに村全体が参加する惣百姓一揆へと発展しました。また中期以降は商品経済が進んだことから、地主や富裕商人の不正を制裁する打ちこわしもさかんになり、幕末期には世直し一揆とよばれるものもおこります。
  一揆頭取供養の地頭
  ▲一揆頭取供養の地蔵
  1784年(天明4)敦賀町打ちこわし一揆のときのものである。
  処刑された一揆の頭取を供養し、1794年(寛政6)ひそかに
  池河内村から谷口村への峠に立てられたものらしい。

 今市村村方騒動連判状
 ▲今市村村方騒動連判状
 村方騒動の主体となった雑家(水呑)などが作成したものである。貧しい百姓が生活できるよう
 村の運営方法を改め、庄屋が民主的に村を運営するよう主張した。この連判状は、騒動が福
 井藩の役人にもれてしまい、破った連判状を思い出して書かされたものらしい。
                                          福井市 片岡五郎兵衛氏蔵
義民 松木長操銅像  義民 松木長操銅像
 近年上中町役住民センターに建てられたものである。長
 操は遠敷郡新道村の庄屋で、江戸時代初め、小浜藩の
 重い年貢に抗議して若狭全体の百姓の代表として藩と
 交渉し、要求は認められたが責任を負って南川の河原(
 上中町)で処刑されたという。その後長く若狭の百姓の
 恩人として慕われた。ただし、そのことを明確に記した当
 時の記録は今のところ見いだされていない。

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