25 火災と防火(1)
 江戸時代の家は萱や藁で葺かれていたので燃えやすく、今日のように消防設備も整っていませんでした。家屋が密集している町場で、ひとたび火事がおこると広く類焼することが多かったのです。福井をはじめとした城下町や三国・敦賀の湊町などでは、たびたび大火が発生しました。1669年(寛文9)4月の福井城下の火事では家中614軒・町家2676軒と、城内の天守をはじめほとんどの建物を焼失しました。大野では、1775年(安永4)4月の大火は城内にまで火がおよび、本丸が焼けました。また、越前各地からの年貢米が集まる三国湊では35年(享保20)3月、幕府米6637石余を焼失するなどしています。

 火事に備えるため、江戸時代中期になると、町火消が組織されるようになりました。たとえば、勝山町では郡町火消組・袋田町火消組・後町火消組が組織されています。また、福井城下には町火消が町組ごとに置かれていました。消火の方法は、竜吐水とよばれた放水具や水籠・長杓によるものでその能力は低いものでした。さらに火が広がったときには、家をこわして延焼を防ぐこともありました。

 火事の発生は春先が多く、このころになると藩の役人と町方の双方による夜廻りが実施され、焚き火の禁止や火の後始末の徹底に関する触が出されています。このほか、屋根を板葺きにさせたり、屋根の上に「天水」をあげさせたり、家の前に水桶と梯子を用意させるなど火災について注意をはらいました。
 鳶口
 ▲鳶口
 大野市郷土歴史館蔵

 竜吐水
   ▲竜吐水
   大野市郷土歴史館蔵


1659年(万治2年)の大火直後の福井城下絵図  1659年(万治2年)の大火直後の福井城下絵図
 絵図中の大名小路から西の街区一帯に赤紙が貼付されており、
 これは大火による罹災区域を示していると考えられる。
          松平文庫 松平宗紀氏蔵 福井県立図書館保管

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