24 災害と飢饉(2)
■寛文の大地震と浦見川の開削 現在の浦見川
▲現在の浦見川  浦見川水路を三方五湖めぐりの遊覧船が通っている。
                                          三方町提供
 この地震による隆起のため、久々子湖に流れ込んでいた三方湖と水月湖の水が流れ出なくなり、周辺の村に水があふれ、田畑が水没した。あふれた水を久々子湖へ通すため、水月湖と久々子湖とを最短距離で結ぶ浦見坂を切り開いて、新しい水路(浦見川)を作ることになった。
 小浜藩は、郡奉行をしていた行方久兵衛に工事を命じた。この工事は大変な難工事であったが、1664年(寛文4)に完成した。工事によって、水没した田畑がもと通りになっただけでなく、三方湖や水月湖の水位が下がり、その結果約400石(30ヘクタール)の新田が生まれることになった。
おもな災害(風雨・旱ばつ・地震・大雪)29KB 鯖江・大野藩領と小浜藩領三方郡の人口
 ▲鯖江藩領・大野藩領と小浜藩領三方郡の人口
 天保の飢饉では全般的に人口の減少がみられるが、疫病の流行や
 飢人救済の程度により個別的には減少しない村もみられる。
天保の飢饉後に建てられた無縁墓
  天保の飢饉後に建てられた無縁墓
 墓の側面には、
  「天保七丙申年飢饉翌丁酉とし疫病
   流行人おほく死す無縁のものを此所
   埋む因て追福のために建之
   于時天保十四癸卯夏四月」
 と刻まれている。
                福井市西木田

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