24 災害と飢饉(1)
 人びとの生活に影響をもたらした自然災害には、洪水・台風・旱魃・大雪・地震などがあります。梅雨時の大雨や台風による洪水は、家屋のみならず農作物を直撃し、その年の収穫高を大きく左右し、ときには飢饉の要因ともなりました。災害のうち、大雨による被害は頻発しています。越前・若狭では、1735年(享保20)、89年(寛政1)、1807年(文化4)、60年(万延1)、66年(慶応2)に大洪水となりました。

 越前で「国初以来之大水」(家譜)といわれた66年の洪水は、5月以来度々出水し、それに8月の暴風雨(台風)が重なったものです。九頭竜川をはじめとする河川が氾濫し、田畑に土砂が押し入り、福井城下も水であふれました。1735年と1804年の洪水は、若狭で大きな被害となりました。各地で山崩れや山抜けが起き、小浜城下も水浸しになりました。また、1735年の大雨は、越前海岸の村むらにも大きな被害をもたらしました。

 建物に損害を与えたものに、地震があげられます。江戸時代、何度か大地震が発生しています。越前・若狭では、1662年(寛文2)5月、1854年(安政1)11月、58年2月に大地震がおこりました。これらの地震では建物が損壊しましたが、火災が発生しなかったこともあり、死傷者は多くでませんでした。1662年の地震は、琵琶湖西岸が震源であったので、若狭では大きな被害がでました。

 江戸時代の大飢饉に寛永・享保・天明・天保の飢饉があります。これらのうち、越前・若狭に最も大きな被害を及ぼしたのは、天保の飢饉です。 
1735年(享保20)若狭の洪水の被害
 ▲1735年(享保20)若狭の洪水の被害
 6月21日から翌22日にかけて、若狭は大洪水にみまわれた。
 名田庄を中心に山崩れ・山抜けが各所でおき、谷々を塞ぎ、
 その水がいっきに流れ出し、小浜城下も水浸しとなった。小浜
 町では濡米・大豆3万俵や濡四十物3万個の被害となった。図
 中の数字は山崩れ・山抜けの数を示す。また、流失家屋など
 の被害の多くは下中郡に集中した。
 文政末年からは天候不順、洪水などによる不作が続いていました。1833年(天保4)の不作により、米価が急騰し困窮人が町在にあふれ、飢饉となりました。町では打ちこわしも発生しました。さらに、36年は春先からの天候不順に加え、8月の大風雨のため凶作となりました。町や村では米不足のため飢人が発生し、食物として蕨・葛・苧の根・よもぎなどでしのぎましたが、餓死者がでました。さらに翌年にかけて、越前・若狭全域で疫病(風病)が猛威をふるいました。各地で藩や有力農民・町人によって粥がたかれ飢人に施されましたが、飢えと疫病によって数多くの命が奪われていったのです。とりわけ、田畑に乏しい浦方では、不漁が重なり多くの死者がでたところもありました。
幕府に届けられた福井藩の損毛高
   ▲幕府に届けられた福井藩の損毛高
   藩領高は25万石、1722年(享保6)30万石、1818年(文政1)以降32万石である。上記のうち1846年(弘化3)の
   損毛は台風によるもので、田畑への被害は10万石余りであるが、このほかに建物に大きな被害がでた。福井
   城下では城内の建物以外に家中屋敷や町家など280軒がつぶれ、城廻りの立木651本が倒れた。在方では家
   1371軒がつぶれたほか、負傷者25人・死者18人がでた。またこのとき、鯖江藩・大野藩領内でも潰家が発生し
   ている。

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