20 「北前船」の登場(1) | |
北前船とは、江戸時代、上方や瀬戸内方面において日本海沿岸方面からやってくる廻船に対する呼び名ですが、この呼び名は日本海沿岸の当時の記録には表れません。まず、「北前船」が登場してくる日本海海運のようすをみてみましょう。 1672年(寛文12)河村瑞賢によって西廻航路が整備されると、これまで北国と敦賀・小浜を結んでいた日本海海運は西廻海運の一部となり、日本海に上方船も進出してくるようになりました。これまでの北国船やはがせ船に加えて、上方船である弁才船が進出し、大坂への廻米に従事するようになりました。やがてこの弁才船は帆走船として改良が加えられ、日本海海運の主軸となり、1000石積の大船もあらわれました。 江戸時代中期になると、松前・蝦夷地産の鯡肥料が近江商人によって扱われるようになり、松前と小浜・敦賀との間を往復するようになりました。その後、近江商人の松前交易の独占が崩れ、また商業的農業の進展のため鯡肥料の需要は西国筋までおよぶようになり、鯡は上方・瀬戸内まで流通しました。米や鯡肥料、さらに諸藩の各種特産物は西廻海運の流通ルートに乗って瀬戸内や大坂の市場に向けて輸送されました。上方船と北国の船は、主力商品となった鯡肥料を求めて蝦夷地に進出しました。 江戸時代後期から幕末にかけて西廻海運の主役となるのが、北陸や山陰を船籍とする廻船でした。越前・若狭の船主として、三国湊の内田家、河野の右近家、敦賀湊の高嶋屋や大和田家、小浜湊の古河家などがあげられます。 |
▲船箪笥(帳箱) 船往来手形や仕切り状、現金などの保管庫として 使われた。 三国町郷土資料館蔵 |
▲北前船のおもな寄港地 拡大図 25KB |
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▲船往来手形 三国町郷土資料館蔵 |
▲出帆免状 東京都 右近権左衛門氏蔵 河野村 北前船主の館右近家寄託 |