18 近世の仏教(1)
 江戸幕府は成立当初から、さまざまな政策で諸寺院を統制しようとし、また寺院を通じて民衆を把握しようとしました。その中心が、寺請制度・本末制度などであると考えられます。

 寺請制度により、人びとは身分を問わずどこかの寺の檀家となりました。檀那寺は宗門改めを行い、檀家がキリシタンでないことを証明する役割も果たしています。

 福井藩では1630年(寛永7)に宗門改めが行われています。百姓に対しては庄屋と十人組の組頭による俗請形式、諸士・陪臣に対しては寺請形式の改めが実施されました。これは全国的にも早い例といえます。小浜藩では34年、酒井忠勝が条々を発してキリシタンの信仰を厳禁しました。翌年には五人組による俗請形式と寺請形式の両方の採用を指示しています。

 本末関係は65年(寛文5)の「諸宗寺院法度」により制度化されたといわれています。越前においては、浄土真宗10派のうち讃門徒派の4か本山(中野専照寺・横越証誠寺・鯖江誠照寺・清水頭毫摂寺)が寺基を定め、それぞれ末寺を支配していました。曹洞宗では越前の永平寺と能登の総持寺が本山と位置づけられていました。この両本山制をめぐって、しばしば両寺の対立がおこりました。また真言宗では、83年(天和3)に中本山寺院である三国滝谷寺と福井寿福院とのあいだに本末争論がおこっています。

 越前では浄土真宗が勢力を誇っており、坂井・吉田・大野郡では東本願寺派・西本願寺派の寺院が多く分布していました。丹生・今立・南条郡では讃門徒派の寺院が多かったようです。足羽郡には諸宗寺院が混在しており、敦賀郡には曹洞宗・浄土宗の寺院が多くみられます。また大野郡の村むらには浄土真宗の道場がおかれていました。

 若狭では禅宗の寺院が多くみられます。特に三方郡では曹洞宗の寺院がほとんどであり、金山龍沢寺・佐田芳春寺・佐柿徳賞寺・田上常在院・三方臥竜院がその中心でした。遠敷郡では小浜発心寺・空印寺を中心とする曹洞宗寺院のほか、小浜の高成寺や常高寺を中心とする臨済宗寺院も展開していました。また大飯郡では臨済宗の寺院が大半を占めていたようです。

 このほか、福井・敦賀・小浜など都市部では法華宗がさかんであり、多くの富裕な商人たちの信仰を集めていました。また、時宗において中世以来の伝統をもつ遊行上人の廻国も幕府・藩の保護のもとで継続しています。 坂井郡の長崎称念寺、敦賀新善光寺、小浜西福寺・浄土寺などが廻国の拠点となっていました。
    越前・若狭の寺院分布と宗派別寺院数(江戸中期)
   ▲越前・若狭の寺院分布と
    宗派別寺院数(江戸中期)
   『越前国名蹟考』『稚狭考』「敦賀郷方覚書」
   により作成した。       拡大図 147KB
「府中町切支丹宗門改帳」
 ▲「府中町切支丹宗門改帳」
 宗門改帳はキリシタン改めの機能とともに、村むらの戸口の基礎台帳とし
 て戸籍的機能ももっていた。                武生市立図書館蔵
「百箇寺騒動略記」
 ▲「百箇寺騒動略記」
 越前では浄土真宗の勢力が大きかったせいか、内部での騒動も
 多かった。1683年(天和3)には東本願寺派寺院の西本願寺派へ
 の改派運動をめぐる東本願寺派百か寺騒動がおこっている。ほか
 に越前専修寺破却事件、吉崎山上争論、西本願寺派宗意一件(三
 業惑乱)などがあり、これらの事件の決着には幕府・福井藩などの
 裁決をあおがなければならなかった。   福井大学附属図書館蔵

←前テーマ/→次テーマ目次