17 松尾芭蕉と岩佐又兵衛(1)
 1689年(元禄2)3月、松尾芭蕉は、曾良をともない奥州・北陸を巡る旅に出発します。8月10日、加賀大聖寺町を出て坂井郡吉崎浦に至り、ここから浜坂浦に渡って汐越の松を訪れました。さらに金津、丸岡とまわり、松岡天龍寺でかつて江戸で親交のあった木夢和尚と会っています。ついで永平寺へ向かいます。途中で、金沢以来同行していた北枝と別れ、福井までは芭蕉ひとりきりの道中となりました。福井では神戸洞哉の家をたずねています。13日、洞哉をともなって敦賀に向かいました。芭蕉の越前での最大の目的は、気比の松原で8月15日に月見をすることだったようです。14日、敦賀に着いた芭蕉は気比社に参り「月清し遊行が持てる砂の上」と詠んでいます。翌15日はあいにくの雨で、「名月や北国日和定なき」と詠みました。この2句は『奥の細道』に収められています。16日には、敦賀で廻船問屋を営む天屋五郎右衛門の案内で色浜浦を訪れ、本隆寺で句会を催しました。17日にいったん敦賀に戻り、その日か少なくとも翌18日朝には敦賀を出発して美濃大垣に向かったと思われます。

 その後、越前の俳諧に大きな影響を与えたのが、芭蕉の晩年の弟子であった各務支考です。支考は1701年以来7回にわたって北陸を旅しその足跡を残しています。その出身地から、彼の門人を美濃派といいます。越前の美濃派としては、三国の昨嚢、福井の韋吹、府中の嵐枝らが知られています。

越前における芭蕉の行程と芭蕉碑
▲越前における芭蕉の行程と芭蕉碑
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『奥の細道』素龍清書本  『奥の細道』素龍清書本
 旅を終えた芭蕉は5年の年月をかけて『奥の細道』を完成させた。
 門人の素龍に命じて清書させたいわゆる素龍清書本は、芭蕉の
 遺言により兄半左衛門に預けられたのち、芭蕉の門人向井去来、
 京都の久米升顕、小浜の吹田几遊、敦賀の白崎琴路をへて、敦
 賀新道野の西村野鶴の手に渡った。以後は西村家に受け継がれ、
 現在重要文化財に指定されている。    敦賀市 西村久雄氏蔵  

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