14 湊の繁栄(2)
 日本海海運の拠点となっていた敦賀・小浜湊には、越前諸藩からの年貢米をはじめとして、北国から米・大豆などの穀物類や四十物などの海産物、奥羽からの材木などが入津しました。寛文・延宝期(1661〜81)には、敦賀湊へはおおむね米・大豆合わせて50万俵以上が入っており、64年には米75万俵、大豆10万俵と最高に達しました。小浜湊へは81年に米・大豆・小豆24万3000俵が入津しています。これらの荷物は、商人により取引され、琵琶湖を通って消費地の大津・京都へ運ばれました。このころの小浜には、109人の米屋や酒屋・魚商人・質屋・糀屋・桶屋・煙草屋が各60余人おり、このほか茶商人・ザルフリ・舟持・油屋などさまざまな商業が発展していました。

 また、両湊からは上方の荷物が北国へと送られました。この下り荷は、茶や木綿・繰綿や畿内で生産される手工業品でした。

 荷揚げされた荷物は、問屋などにより取引されました。敦賀では、荷物を仲買に売渡す売問屋、仲買をつとめ売問屋から荷物を買い取り、小売に売り渡す買問屋があり、それぞれが取引にさいし得分をとりました。米と茶の取引では、売買の仲介をする仲が設けられ、仲銀を徴収しました。このほか、諸藩から委託されて年貢米の運送・売却にあたる蔵宿とよばれた商人もいました。

 西廻海運の発達により敦賀や小浜湊は、やがて打撃を受けることになりました。北国から敦賀に運ばれていたぼう大な量の米は、しだいに大坂に直送されるようになり、天明期(1781〜89)には寛文期の3分の1に落ち込み、敦賀・小浜を中継地とする北国海運は衰退していきました。しかし、北国海運において北国から両湊までの往復は年に5、6回できるのに対して、西廻海運は北国と大坂を1往復するのが限度であり、海難の危険性もあるなど難点がありました。また、両湊には、ここから北国へ向かう下り荷が集まっており、湊の役割をもち続けました。
     大津・京都への輸送経路
     ▲大津・京都への輸送経路
             
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 敦賀商人が蔵宿をつとめた北国諸藩(1682年ころ) 
  ▲敦賀商人が蔵宿をつとめた
   北国諸藩(1682年ころ)
  「遠目鏡」によると、上記のほか福
  井藩・大野藩・丸岡藩・大聖寺藩の
  蔵宿をつとめた商人がいた。また、
  丸岡藩・津軽藩は敦賀に蔵屋敷を
  置いていた。 拡大図 42KB
  1645年ころの小浜町 18世紀前半ころの敦賀町
  ▲1645年(正保2)ころの小浜町
  「若狭敦賀之絵図」酒井家文庫                 小浜市立図書館蔵
▲18世紀前半ころの敦賀町
町の分布のほかに、御茶屋や代官屋敷・町奉行屋敷・塩蔵などの小浜藩の公的施設、津軽蔵屋敷などを見ることができる。
         「敦賀町絵図」 京都大学総合博物館蔵
敦賀への米・大豆入津量(1648〜1718年)
   ▲敦賀への米・大豆入津量(1648〜1718年)
   「指掌録」より作成したもので、敦賀へもたらされたぼう大な米には諸藩の蔵米のほか、商人による商い米もふくまれていた。これらを運ぶ
   ため敦賀へ入津した船数は、1664年(寛文4)には最も多く2670を数えた。

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