初期豪商の活躍(2)
 敦賀では、道川・高嶋屋・打它などがいます。道川は、中世以来廻船を仕事としていた川船座の頭分で、領主となった蜂屋頼隆・大谷吉継から地子・諸役・櫂役などを免除され、当時太閤板とよばれた伏見城の用材を秋田から敦賀に輸送し、南部藩・佐渡奉行大久保長安から船役・櫂役を免除され、さらに秋田藩の蔵宿を務めています。

 近江国守山から出た高嶋屋伝右衛門は、加賀藩前田氏と深いつながりを持ち、加賀藩から敦賀に送られた米を一手に引き受ける蔵宿を務め、のちに加賀藩領諸浦で持船の間役を免除されました。

 江戸時代を通じて敦賀で第一の家格を保持した家である打它氏は、飛騨の金森氏に仕え、茂住銀山を支配する金山奉行を務めた宗貞が江戸時代の初め敦賀に来住し、秋田藩の蔵宿を務め年貢米の輸送や売払いにあたり、また幕府が秋田藩に賦課した軍役板を出羽能代から敦賀まで運んでいます。さらに加賀藩が能登で行った塩の専売を一手に引き受け、また福井藩ついで小浜藩の敦賀代官にもなりました。

 三国の森田は、織田信長の能登侵攻にあたって船の手配をするなど早くから中央政権との結びつきをもっており、北庄城主であった堀秀治の米の輸送や、加賀藩の年貢米の輸送に深くかかわり、佐渡奉行の大久保長安や加賀藩から佐渡や領内での入港税などを免除されています。
  打它宗貞
  ▲打它宗貞
  敦賀の初期豪商。北国諸大名との強い結び
  つきをもつとともに、福井藩、ついで小浜藩の
  代官をも務めた。1643年(寛永20)8月22日に
  死去。墓所は敦賀の永厳寺。
                敦賀市 打它明子氏蔵   
             
             ▲世界図屏風
             福井県内には、初期豪商の活躍を反映してか、多くの世界図屏風が残されている。この浄徳寺の屏風も
             その1つで、16世紀ごく末の南蛮系の世界図であり、重要文化財に指定されている。  福井市 浄得寺蔵                                       

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