3 越前・若狭の諸藩(1)
 1600年(慶長5)9月、美濃国関ケ原において、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激しくぶつかりあい、西軍についた小早川秀秋の寝返りを機に東軍が勝利し、家康が天下を握ることになりました。
 若狭の木下勝俊、越前敦賀の大谷吉継らは西軍に与したため、その領地を奪われました。また東軍に属した北庄の青木一矩や府中の堀尾可晴なども領地を移されました。そして、越前一国が家康の次男である結城秀康に、若狭一国が大津城で関ケ原の戦いの直前まで奮戦した同城主京極高次に与えられ、福井藩と小浜藩が成立しました。

 1607年に死去した秀康の跡を継いだ松平忠直は、不行跡や江戸への参勤を怠ったことなどを理由に、23年(元和9)改易され、豊後荻原に流されました。その翌年、忠直の弟であり越後高田を領していた忠昌が福井に入りました。この時、越前敦賀郡は小浜藩の京極氏に与えられ、大野・勝山・木本を忠昌の弟らが、丸岡を本多氏が領することになりました。丸岡藩は、95年(元禄8)外様大名の有馬氏が藩主となっています。

 若狭では、34年(寛永11)に小浜藩が時の老中酒井忠勝に与えられ、譜代大名の領地となり、明治維新まで続きます。敦賀郡で小浜酒井氏の分家が3家成立し、82年(天和2)に大野は譜代大名の土井氏へと領主が代わりますが、もっとも大きな変化は、86年(貞享3)に福井松平氏がその領知を半分に削られたことです。この結果、越前には広大な幕府領が成立するとともに、91年に勝山に小笠原氏が入部、97年に紀州家の分家の松平2氏(この内1家はのち8代将軍となる徳川吉宗が当主)の領地が成立し、1720年(享保5)に鯖江に間部氏が入りました。このほか、大坂城代の土岐氏、美濃郡上藩、三河西尾藩の領地がもうけられ、さらに旗本の諸領もわずかながら設定されました。
 小浜藩主酒井忠直あての徳川家綱領知判物
 ▲小浜藩主酒井忠直あての徳川家綱領知判物
  (1664年 4月 5日付)
 将軍の代替りにあたって領知を安堵したものである。判(花
 押)は、4代将軍家綱のものである。なお、判物の原本は明
 治政府に提出され今はない。この判物には、紙の大きさ、花
 押・宛名の位置などの寸法が注記されている。
                  酒井家文庫 小浜市立図書館蔵                    
   (左)1624年(寛永 1)の所領構成 (右)関ケ原の戦い後の所領構成  

   ▲関ケ原の戦い後の所領構成
                    ▲1624年(寛永1)の所領構成
                           拡大図 25KB

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