22 越前一向一揆(2)

 これに対し織田信長は、一揆鎮圧のため10万余の軍勢を率い、1575年8月に再び越前に向けて出陣しました。このとき一揆勢の主力は、本覚寺・西光寺・専修寺などの坊主分の率いる軍勢でしたが、信長の侵攻に備え木ノ芽峠・鉢伏山一帯を守備したものの防禦線を破られ、越前はまたたく間に制圧されました。

 信長は国中で徹底した一揆狩りを行い、一揆の再蜂起を防ごうとしました。また、一揆の総大将下間頼照も高田系の称名寺門徒に討たれ、一向一揆の越前支配は1年半で終わりました。越前の「一揆の時代」=中世は、ここに終結したのです。

 統一政権成立の前に立ちはだかった一向一揆は、信長に激しく弾圧されました。しかしその後も越前真宗門徒は、石山本願寺に拠り信長に対抗する本願寺顕如・教如をさまざまな方法で支援しました。
        天正年間の府中付近の一揆を示す文字瓦
        ▲天正年間の府中付近の一揆を示す文字瓦
        文字瓦には、5月24日に一揆がおこり、信長
        配下の前田利家が一揆勢を約1000人生捕り
        にし、はりつけや釜あぶりに処したことが刻ま
        れている。  武生市 味真野史跡保存会所蔵

専修寺賢会書状
 ▲専修寺賢会書状
 本願寺の一家衆であった賢会は、織田信長軍の侵攻にそなえ、1574年(天正2)に鉢伏山(敦賀郡と南条郡の境)にたてこもったが、翌年8月
 の信長軍の侵攻のさいに討死した。この書状は、鉢伏山籠城中の賢会が、統制の崩れつつある一揆の実態を知らせている。
                                                                             三国町 勝授寺蔵
村岡山城跡遠望
▲村岡山城跡遠望
1574年(天正2)2月、大野郡南袋・北袋・七山家の一向一揆勢が
村岡山に城郭を構え、平泉寺を焼打ちした。     勝山市郡町
石山合戦の携行品
▲石山合戦の携行品 
1570年(元亀1)から1580年(天正8)まで続いた織田信長と本願寺の戦争
(石山合戦)において用いたと伝えられるもの。馬くつわ、刀剣、弁当箱など
が残されている。                        今立町 円成寺蔵


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