21 神事と芸能(1)
 中世の寺社は神事の基盤を免田と神人の奉仕に置いていましたが、中世後期に神仏信仰の世俗化がすすむと、この基盤の意義が低落しました。そうすると、15世紀の中ごろ今立郡大滝社が修正月会の行の餅の負担を周辺の村落の座に差定(選定)しているように、寺社は一定の地域の人びとの信仰に重点を移すようになりました。村むらはまたそれぞれの村で村堂とよばれるような小寺社で神事を行っていました。この大滝社の神事組織と個別の村の神事組織は、ちょうど惣結合が惣荘と惣村という重層的な構造をもっていたことと対応します。

 行・田遊び・饗事にみられるように、人びとは豊作の祈願や感謝のために神に働きかけますが、この所作が祭りは非日常的なハレの場であり、神と交歓する場であるという考えと結びついて、神事の時の華やかな民衆芸能を生み出すことになりました。三方郡の上瀬(宇波西)社や弥美社で中世以来神前で行われている田楽・王の舞・獅子舞がその代表的なものです。上瀬社の田楽については耳西郷気山の名主が毎年3人差定されて頭になり費用などを負担することとされており、その頭人を記した頭文が1485年(文明17)以来伝えられています。こうして神事が地域の人びとによって担われるようになり、それゆえ今日まで伝統行事として続けられているのです。

 神事芸能のなかでも天下安全・五穀豊穣を祈念して舞われる翁は特別に神聖な舞でしたので、専門の猿楽者が招かれました。越前は著名な猿楽面製作者(面打)や、都でもその名をうたわれた猿楽者を輩出しています。戦国期に村人によって自治的な運営がなされていたことが知られる今立郡月ケ瀬村の薬師堂小白山社には正月13日の猿楽神事の面が伝わっていたとされ、勝山市滝波の白山社には翁などの三面が伝えられていることからみて、越前でも中世では翁などの神事猿楽がさかんであったと思われます。若狭では14世紀以後、猿楽者は気山座や倉座などの座に編成されており、座の長は楽頭職をもち、惣村の特定の神社で神事猿楽を舞い礼銭を得る権利を領主から保証されていました。そのため若狭では翁猿楽が近世でも続けられており、村が困窮を理由に翁猿楽を中止したいと思うときには、領主に願い出なければなりませんでした。
 弥美神社(美浜町)の王の舞
 ▲ 弥美神社(美浜町)の王の舞
 毎年5月1日に奉納される。王の舞は、稲作に先だって神社
 の祭神の祖霊の前に氏人の安穏と豊作を祈念するもので、
 現在15か所(三方町7、美浜町2、上中町4、小浜市1、敦賀
 市1)で行われる。
                     若狭歴史民俗資料館提供
   宇波西神社(三方町)の田楽
   ▲宇波西神社(三方町)の田楽
   毎年4月8日の祭礼に奉納される。宇波西神社
   ではほかに中世前期の特色を残す巫子舞・王
   の舞・獅子舞が奉納されており、これらの芸能
   は古くから村(浦)ごとに所役が定められてい
   た。中世では、田楽頭は宇波西神社の位置す
   る気山に名田をもつ人が勤めることとされてい
   た。現在でも、氏子の各地区では祭礼の数日
   前に頭屋行事が行われ、祭礼当日に頭人が幣
   束と献饌を調進する。
                若狭歴史民俗資料館提供

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