概観 近世
親子・博奕・忠孝等定高札

親子・博奕・忠孝等定高札  春江町 上野三郎氏蔵

 
 越前・若狭の近世は、織田信長によってその幕が上げられました。信長は、戦国大名朝倉氏を滅亡させ、ついで一向一揆を潰し、重臣柴田勝家・丹羽長秀を、それぞれ越前・若狭に配置しました。この配置は、この地がいかに重視されていたかを十分にうかがわせます。

 信長が本能寺に倒れたあと、柴田勝家と豊臣秀吉とが争い、秀吉が勝利し、やがて天下人の地位に就きます。豊臣時代の越前・若狭は、わずかの間に、領主がめまぐるしく代わります。そして、関ケ原の戦いのあと、越前は江戸幕府を開いた徳川家康の次男結城秀康が、若狭は大津城で奮戦した京極高次が支配するところとなりました。

 若狭では、1634年(寛永11)、京極氏に代わって幕府老中の酒井忠勝が領主となり、その後、酒井氏が幕末まで領有しました。一方、越前では、秀康の跡を継いだ松平忠直が不行跡を理由に豊後に配流され、さらに86年(貞享3)に福井藩の領知が半減されました。そして、削減された地に丸岡藩・大野藩・勝山藩・鯖江藩などが成立し、18世紀のもっとも多いときには、幕府領をふくめて領主の数は16人にものぼりました。
桜門前馬威しの図  福井市春嶽公記念文庫蔵
桜門前馬威しの図  福井市春嶽公記念文庫蔵


  近世、ことにその前半、越前敦賀・若狭小浜の2つの湊町は、全国的にも大いに脚光をあびました。北国の領主たちは、手にした年貢米を中央市場である上方へと輸送し、それで得た金銀で鉄砲や高級織物などの都の手工業品を買い求めました。これを中継したのが、敦賀・小浜です。17世紀の中ごろ、敦賀には2670艘が入津し、米・大豆あわせて85万俵が陸揚げされ、琵琶湖を通って大津・京都へと送られています。この繁栄も、17世紀末に西廻航路が開かれたことで、翳りをみせはじめます。しかし、近世後期には、小浜の古河、越前河野浦の右近など、いわゆる「北前船主」が活躍し、この地は依然として全国流通に深くかかわっています。                      
 農村に目をむけると、越前・若狭とも秀吉により厳しい太閤検地が行われました。それでも17世紀中は人口増もみられ、生産力の上昇がうかがえます。しかし、18世紀以降は、凶作や飢饉が続発し停滞していきます。これは、越前・若狭に特徴的なことではなく全国的な状況です。こうしたなか、民衆は、その生活を守るために一揆をおこしました。さらに村内では、庄屋などの有力百姓と他の百姓とのあいだで、村の運営や諸負担などをめぐって「騒動」が頻発しました。また大用水地帯である越前では、その利用をめぐって村むらが争い、幕府に裁許をあおぐこともしばしばありました。

 海を生業の場とした越前・若狭の浦うらは、近世前期には、中世以来の漁業の先進性を背景に、城下町の成立による新たな需要を得て大きく発展しました。また、古代以来の塩つくりもさかんでした。18世紀に入ると、塩つくりは瀬戸内の塩に圧倒されるようになり、漁業もその先進性は失われていきます。しかし、新たにサバやカレイ漁がさかんとなり、塩つくりに代わって油桐の栽培が急速に伸び、若狭の特産となっていきます。

 近世後期の越前・若狭は、日本における洋学発達の歴史においてきわめて重要な位置を占めます。若狭は、『ターヘル・アナトミア』を翻訳した杉田玄白・中川淳庵を生みました。大野藩は、洋学の受容に積極的で、藩政改革や蝦夷地開発にもそれが生かされました。

 幕末期、小浜藩主酒井忠義は京都所司代、前福井藩主松平慶永(春嶽)は政事総裁職に就くなど、幕政に深く関与しました。また元小浜藩士である梅田雲浜や福井藩士橋本左内らが幕末の政局に大きな影響を与えました。民衆もまた海防、幕府の長州攻め、京都警護などへ藩士とともに動員されています。同時に、開国の影響が徐々に越前・若狭にもおよび、物価騰貴は著しく、民衆の生活を圧迫するなど、世情が激動の様相をみせるなか、明治維新を迎えます。

→次ページ目次