22 越前一向一揆(1)

 本願寺蓮如の越前吉崎布教により戦国期の北陸に本願寺系浄土真宗の信仰が広まると、これを媒介として一揆が結ばれ、守護勢力や既存の諸宗派に対立しはじめました。北陸での最初の一向一揆は、応仁・文明の乱で西軍に属した加賀の富樫幸千代方・甲斐氏・高田門徒と、東軍の富樫政親方・朝倉氏・本願寺勢の対立をはらんで1474年(文明6)に加賀でおこったものです。翌年には政親方の一部と一揆方急進派が対立し、吉崎にいた蓮如は一向一揆を制止しようとしますが一揆は鎮静化せず、8月に蓮如は吉崎を去ります。そして1488年(長享2)以降、加賀は一向一揆の支配するところとなります。      坂井郡帝釈堂
    ▲坂井郡帝釈堂
    帝釈堂付近は、永正の一向一揆のさいの激戦地の1つで
    あった。「朝倉始末記」は、越前勢と一揆勢双方の怨霊が、
    帝釈堂辺の村人を悩ませたことを伝えている。
                                 金津町中川         
 1506年(永正3)3月に本願寺実如の命を受け、加賀の一向一揆は越前の一向衆に呼応し、30万の大軍をもって越前に侵入します。しかし一揆勢は九頭竜川の戦いで朝倉氏に敗北し、吉崎の坊舎は焼かれました。越前一向衆の中心的な勢力であった超勝寺・本覚寺などは加賀に亡命し、のちに加賀一向一揆の主導権を握ります。朝倉氏は本願寺系浄土真宗を厳しく禁止し、加賀一向一揆と朝倉氏の対立はその後約61年間も続きました。
 戦国期の政治抗争の深化にともない、1569年(永禄12)に本願寺と朝倉氏は織田反信長連合を形成し一転して手を結ぶようになり、同時に一向宗の禁圧も解除されました。1573年(天正1)8月の織田信長の越前侵攻により朝倉氏は滅亡し、その後は織田方の武将が越前を支配します。しかし翌年には一向一揆が蜂起し、織田方の武将を討つほか、平泉寺などの敵対勢力を攻撃し、本願寺領国として越前を支配するにいたりました。本願寺は坊官下間頼照を総大将として越前に下向させますが、一揆内部の坊主分・坊官と門徒の対立などもしばしばおこり、その支配は強固ではありませんでした。
朝倉景鏡奉行人連署奉書
             ▲朝倉景鏡奉行人連署奉書
             1572年(元亀3)に朝倉景鏡が最勝寺に鑓持夫の提供を命じている。この時期の朝倉氏と本願寺系寺院の関係
             が知られる。                                                 大野市 最勝寺蔵

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