19 商人の活動(1)
中世の諸商人  「七十一番職人歌合」(模本)より、中世の商人たち。右から鍋売り、酒造り(酒売)、芋売、綿売。  東京国立博物館蔵
      ▲中世の諸商人
      「七十一番職人歌合」(模本)より、中世の商人たち。右から鍋売り、酒造り(酒売)、芋売、綿売。          東京国立博物館蔵

 商人とは物を売買したり、金融を営む人のことをおもに示す言葉として用いられていますが、すでに職人について述べたように、中世では職人と商人の両方を兼ねる場合が多くみられました。例えば「隣郷の室衆」とよばれている農村の室衆(麹の生産・販売者)がその例です。また直接ものを売買しない運送業も、中世ではむしろ商業の比重が大きかったのです。南条郡河野・今泉両浦と山内の馬借たちは、自らの活動を「其の在所のあきない并に馬借」と記しています。若狭の浦の廻船人や敦賀郡の川舟座についても同様のことがいえます。
 鎌倉末期の1315年(正和4)より坂井郡坪江上郷の年貢は代官が「平泉寺神物」を「借下」げて納入していますが、これは大野郡平泉寺の僧・神人が当時借上人とよばれた金融業を行っていたことを物語っています。また同じころ小浜では「はまの女房」・石見房覚秀親子が、山伏などによって集められた熊野三山初穂米銭を運用する金融業者として、周辺の農民から金融を通じて名主職を獲得したり、得宗の支配する遠敷郡太良荘の代官に任じられたりしています。これらの例から知られるように、世俗の商人法がある程度の成長を遂げるまでは、人びとに畏怖される神仏の権威が商業を保護していました。ただしこの時代には神仏の権威も揺らぎ始めていましたから、湊や市場で暴力的に債権を行使する悪僧・悪党の行動も激しくなっていました。
   一乗谷出土の小分銅
   ▲一乗谷出土の小分銅
   香料や綿など軽いものを計量するさいに
   用いられた。中央のもので高さ39mm。
          一乗谷朝倉氏遺跡資料館蔵

   一乗谷出土の銭
   ▲一乗谷出土の銭
   一乗谷からは渡来銭の北宋銭が多く出土しており、写真
   のように「さし」の状態で発見される場合もある。

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