18 中世の職人(1)
 鎌倉期に「職人」とされる人びとのなかには、医師・陰陽師・巫女・博打・万歳法師など職能民全体がふくまれていましたが、室町期以後は職人といえばおもに手工業者をさす言葉となりました。中世のさまざまな職人たちは町にも住んでいましたが、農村の職人たちも少なくありません。農村の職人である丹生郡織田荘の大工や紺屋が田地を持っており、また戦国期に北部日本海沿岸地域で広く使用された越前焼を生産していたのが丹生郡平等村の有力農民であったと考えられているように、農村職人は農民と未分化でした。さらに、職人は多く商人をも兼ねていました。戦国期は越前奉書の生産で全国に知られるようになる今立郡大滝神郷の紙漉き職人に、浅水橋以南が諸役免除の営業活動領域として認められていることや、大野郡鍛冶惣中以外の人が鎌・鍬・釘などを振売り(小売り)することが禁止されているのは、これら職人が製品を運搬・販売していたことを示しています。これは顧客の注文を受けて生産する古いやり方から生まれてきたもので、商人の仲介販売利益を排除しようとしたものと考えられます。     丹生郡看景寺梵鐘
  ▲丹生郡看景寺梵鐘
  吉田郡芝原の鋳物師が1523年(大永3)
  に鋳造したもの。もとは三国湊の千手寺
  にあった。            越前町小樟
 このように商人の性格をももつ職人の活動は、特定の領主の支配する荘園の範囲をこえていました。そこで、職人たちは個別の領主の支配領域をこえる権威をもつ寺社神仏に奉仕する神人などの身分を得て、活動の自由を保証されていたのです。1291年(正応4)に日野川より西の商人が越知社大谷寺の神人とされていますが、そうした商人・職人の1つである麹の製造・販売者である室衆が大谷寺の11月の天台大師講に納入する麹は、神仏への「御初物」だとされています。     越前焼壺
      ▲越前焼壺
      製作者の略押様の窯印が線刻されている。
                      福井県陶芸館蔵

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