13 浄土真宗のひろがり(1)
 1290年(正応3)に真宗高田系の三河国の円善門下の如道により足羽郡大町専修寺が開かれ、14世紀にかけて高田系の布教の最大の拠点となります。1311年(応長1)には本願寺覚如が如道に「教行信証」を伝授するなどの動きがあり、14世紀には遠江の「佐塚ノ専性」や三河の「和田ノ信性」ら高田系の人びとにより、越前への布教が精力的に行われ、大野郡・足羽郡の美濃街道付近の村むらや坂井郡を中心に高田系の信仰が広がりました。越前在来の白山天台系寺院の1つ今立郡長泉寺の孤山隠士は、14世紀初頭に「愚闇記」を著し如道の流儀を批判していますが、そこに真宗のひろがりに対する警戒と両者の緊張関係をうかがうことができます。

 大町専修寺を拠点として、南北朝期には如道の法脈は、道性(証誠寺祖)―如覚(誠照寺祖)と受け継がれたほか、浄土宗の西福寺(敦賀市)・専照寺(福井市)・光照寺(武生市)などに入寺し、越前の各地に展開していきます。また今立郡毫摂寺は、応仁の乱後越前に移ったのち同郡山本荘に寺基を再興し、やがて三門徒系に編入されていきました。専照寺・誠照寺(鯖江市)・証誠寺(鯖江市)は本願寺系や高田系と一線を画する三門徒系の中心となり、毫摂寺(武生市)とともに以後真宗の四か本山として存続します。

 戦国期の1471年(文明3)に坂井郡吉崎に坊舎を建て、この地を布教の拠点とした本願寺蓮如は、消息である「御文(御文章)」を門徒集団にあて、また「南無阿弥陀仏」の「六字名号」の下付などを通じて北陸一帯に本願寺系の信仰を広めました。「御文」の内容からは、大野郡平泉寺・坂井郡豊原寺などの白山天台系寺院との妥協を説いていたこと、三門徒系の信仰を「秘事法門」と批判し、三門徒系の糾合を図っていったことなどが知られます。当時の政治情勢では、本願寺系と鋭く対抗する高田系が加賀の富樫幸千代方の西軍に属したことで、本願寺系は東軍に与同し戦国の争乱に加わりました。
  蓮如画像(鹿子の御影)
▲蓮如画像(鹿子の御影)
蓮如6歳のときの寿像といわれ、蓮如の
母が本願寺を去る前に描かせた下絵に、
本願寺住持継職後の蓮如が鹿子文様を
書き入れさせたものという。
              福井市 超勝寺蔵
 蓮如は一揆の動きを牽制したといわれますが、加賀一向一揆が吉崎まで波及したので、1475年に蓮如は吉崎を去り海路を小浜へと向かいました。

 近世の真宗寺院の由緒書によると、この時期に蓮如のもとへ参じて他宗から本願寺系に転派したという由緒をもつ寺はかなりの比率になります。また「嫁威し肉附の面」の伝説は、単に嫁いじめを悔い改めた老女の話ではなく、白山権現を信じる老女が産土神の社の面をつけて嫁を威したという設定になっています。これは、旧来の白山信仰や産土神信仰が、嫁の信じる本願寺系信仰へ屈服していくという、在地の信仰の変化というモチーフが背後に隠された伝説といえます。蓮如が吉崎に滞在した4年間で北陸の宗教状況は大きく変化し、このような本願寺系信仰のひろがりと戦国期社会に一般的となる惣的結合を背景として、一向一揆が形成されていったのです。
足羽郡大町専修寺跡 
▲足羽郡大町専修寺跡
1311年(応長1)、大町に本願寺3代覚如
が下向し、如道のほか坂井郡田島の行
如(興宗寺祖)や足羽郡和田の信性(本
覚寺祖)に「教行信証」を伝授したという。
                  福井市大町 
    
  愚暗記返札
       ▲愚暗記返札 
       如道が「愚闇記」への反論を逐条的に述べた書で、深い教義理解を示す。
                                          福井市専照寺蔵  

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