12 越前・若狭と周辺地域(1)
 中世において越前・若狭は京都や鎌倉から強い規制力や影響力を受けましたが、同時に周辺の地域とのいろいろな意味での交流にも注目しておく必要があります。

 戦国末期には、越前大野郡とそれに隣接する地域に白山の支配権をめぐる1つの動きがみられました。1581年(天正9)に美濃郡上郡と大野郡にまたがる9か村の本願寺門徒が「山中惣中」と総称されているように、両郡は密接なつながりをもっていました。こうした状況のなかで、それまで美濃郡上郡の東氏に属していた大野郡石徹白の石徹白種吉が1540年(天文9)に朝倉氏の家臣となりました。ここで朝倉氏は初めて越前全体を領国とすることができましたが、それはまた石徹白氏が支配していた美濃から白山に登る道が朝倉氏の支配圏に属したことを意味します。これに刺激されてか、1543年には加賀石川郡の牛首・風嵐の村人は越前平泉寺と結んで、加賀からの白山登山道を支配していた尾添などの人たちと争い、白山登山者からの礼銭徴収権を奪おうとします。幕府の判決によってこの企てを退けられた牛首・風嵐は、今度は石徹白氏の白山道支配に抵抗する大野郡打波の人と結んで、三峰や別山に関を設けて礼銭を取っています。

 朝倉氏の支配圏拡大に連動して、大野郡から隣国地域に複雑な動きがおこっていることがわかりますが、白山を中心とする国を超えた民衆的な地域が自立的な色彩をもって形成されつつあることが注目されます。朝倉氏滅亡後、この地域の中心をなす大野郡北袋の人たちは一向一揆軍として1580年まで柴田勝家に抵抗し、敗北します。こうして、国をこえた自立的地域は新しい権力に服属します。勝家は加賀からの自立を図った牛首・風嵐のみならず、山内地域もふくめていわゆる白山麓18か村を越前に編入し、これらの村は以後、1872年(明治5)まで越前大野郡に属することになります。
牛首16か村と白山麓18か村
▲牛首16か村と白山麓18か村
牛首16か村(印)に中宮・尾添の2か村(印)を加えた村むらは、
近世には「白山麓18か村」と称され、一定のまとまりをもつ地域で
あった。
南蛮風俗図屏風
▲南蛮風俗図屏風
小浜には1408年(応永15)と1412年に南蛮船が来航し、また三国に
は1551年(天文20)に唐船が来航しており、海に面した越前・若狭に
は、外国との交流もみられた。            福井市 大安寺蔵
         八百比丘尼伝承地 
         ▲八百比丘尼伝承地
         丹後の浦島太郎伝説と、800歳まで生
         きたといわれる若狭の八百比丘尼伝
         説は、ともに長寿伝説であり、日本海
         を介した伝説のひろがりがうかがわれ
         る。なお、1449年(文安6)に若狭から
         京都に長寿の「白比丘尼」が上洛し、
         見物料をとったという記録がある。
                       小浜市 空印寺

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