11 交通と市町の展開(1)
      街道をゆく馬借 「石山寺縁起絵巻」
      ▲街道をゆく馬借
      近江国石山寺の縁起や信仰を伝える、鎌倉時代末期成立の「石山寺縁起絵巻」に描かれた 近江坂本の馬借。
                                                                     大津市 石山寺蔵
 中世の内陸部交通は河川が重要な役割を果たしており、三国湊は坂井郡金津・足羽郡北庄・府中・奥越地域と河川で結ばれ、また敦賀津は川舟座によって敦賀郡内の各所とつながりをもっていました。また若狭では、遠敷郡の北川・南川が郡内陸部から小浜津への輸送路としての機能をもっていました。

 中世の若狭では、古代官道のルートを踏襲する九里半街道が主要街道として利用されましたが、針畑を越えて鞍馬街道を経由する道や、名田荘を経由して長坂越えを通る道も利用されていました。一方越前では、北陸道が主要街道の位置を占めていましたが、三河から越前への浄土真宗伝播のルートとしても知られる美濃街道も大きな役割を果たしていました。これらの河川や街道には、その地の領主の収入源として、あるいは戦国大名の軍事上の必要から関が設けられました。



 中世の交通路と市・町 
    ▲中世の交通路と市・町   [拡大画像]47KB
 また府中から西にのびる西街道では、運送業者である馬借が戦国期には活躍しました。この馬借は、南条郡河野・今泉の両浦に入港した船の物資運送と塩・榑の独占的販売権をもち、両浦・山内の馬借として知られています。

 越前の戦国大名朝倉氏は、1510年(永正7)より越前の街道の修復を国内の人びとに命じ、また敦賀郡の庄の橋(笙橋)や足羽郡の浅水金橋・北庄橋の修理を行うなど、交通路の維持管理を重要視していました。しかし、日野川の白鬼女橋と九頭竜川の高木橋はともに、軍事的な意味から舟橋でした。

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