10 惣村と一揆(1)
 厳しい自然と社会の環境のなかで生きる中世の百姓は、本来「百姓の習い一味なり」といわれたような結束した行動力をもっていました。この行動力が特定の目的のために発揮されるのが一揆ですが、鎌倉期の後半から百姓たちは強い結束力をもつ日常的な組織としての惣村を形成してきました。1334年(建武1)に遠敷郡太良荘では59人の百姓が連名して地頭代脇袋彦太郎の罷免を求めており、1371年(応安4)には吉田郡河北(河合)荘の番頭百姓らは延暦寺の西縄坊が代官として再任されることを拒否していますが、いずれも惣村百姓の一揆行動とみることができます。

 惣村を基盤とする百姓たちの一揆行動は年貢減免要求・非法代官の罷免など個別の荘園内の行動にとどまらず、1531年(享禄4)に若狭三郡百姓が武田氏から徳政令を獲得したように広域的な活動もみられました。こうした惣百姓の活動が蓄積されたことにより、領主たちは年貢を増徴することもできなくなり、寺庵・土豪・有力百姓の手元に中間得分である内徳が留保されることも可能になったのです。戦国期には敦賀郡江良浦でみられるように、新領主は惣浦が領主に奉仕する年貢などの額と、領主が浦人の奉仕の見返りとして支出する銭や酒飯を記した浦の指出を承認することが必要でした。領主の支配は惣村の合意を得なければならなかったのです。
  敦賀郡江良浦刀祢・御百姓等の申状

  ▲敦賀郡江良浦刀祢・御百姓等の申状
  1527年(大永7)の正月に江良浦の人びとは新しい領主天野氏が浦人の指出を拒
  否したことを述べ、もとの領主が浦人に断りなく新領主に浦を売却したことに抗議
  している。                             敦賀市 刀根孝一氏蔵

 江良浦の負担と下向(1527年)
 ▲江良浦の負担と下行(1527年)
 江良浦が領主に負担する年貢の内容よりも、浦人が領主に使役されたときに
 受け取るべき、銭や酒飯のもてなしのほうが詳細に記されており、興味深い。
 刀根孝一氏所蔵文書により作成。

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