9 守護大名と国人(1)
 守護は、鎌倉期には国御家人を統括し、幕府の命令を忠実に執行していましたが、室町期になり国ごとに守護職につく者が固定化・世襲化していくと、段銭など独自の賦課を課したり、国人の家臣化を進め、また小守護代・在国奉行などの機構を整備するなど、幕府からある程度自立して領国のさまざまな出来事に対応するようになりました。

 頻繁に守護が交替したのち1366年(貞治5)に若狭国守護となった一色氏は、西津に守護所を置き、先行する守護と同様に半済を実施し、また多様な名目で守護役をかけ、若狭支配を本格的に進めました。国人のなかには、小笠原氏に替わって守護代となった三方氏や、河崎・和田氏のように、早くから一色氏に従った者もいれば、古くからの伝統的な自立性を守ろうとして一色氏と対抗する立場をとる者もいました。三方・遠敷両郡を中心とした国人一揆方は、1371年(応安4)に守護方と戦って破れ、若狭における一色氏支配が確立されることになります。続いて守護となった武田氏のもとでは、若狭は安芸国から移ってきた武田氏家臣に抑えられ、一色氏に従った国人のほとんどは、一色牢人として蜂起し討たれるか、一色氏とともに丹後国へ移りました。しかし国人本郷氏や佐分氏は幕府奉公衆として大飯郡に勢力をもち、また遠敷郡の池田・片山氏も幕府との結びつきを背景に独自の活動を展開しました。
野木山
▲野木山 
1371年(応安4)の応安の国一揆において国人一揆
方に対抗して守護一色氏方が陣を構えた山。手前
が決戦のあった玉置河原。
   若狭応安の国一揆(1371年)時の勢力配置
   ▲若狭応安の国一揆(1371年)時の勢力配置

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