8 南北朝の動乱(1)
 1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡した後に後醍醐天皇は天皇政治の復活をめざしました。しかし得宗専制支配のもとで蓄積されていた人びとの不満は簡単には収まらず、動乱の時代が長く続きます。1336年(建武3)に京都で敗れた後醍醐天皇は皇子を派遣して地方に南朝方の拠点を作ろうとし、その一つに越前が選ばれ、皇子を擁した新田義貞が敦賀に下りました。その年から1341年(暦応4)まで、南北両軍は敦賀郡金ケ崎城・南条郡杣山城・足羽郡藤島城・坂井郡鷹巣(高栖)城などで激しく戦闘をくりかえし、北軍が勝利しました。まもなく九州を除いては地方においても本来の南朝方勢力は力を失います。

 これ以後は、幕府内部の対立勢力がそれぞれの立場からあるいは北朝方を、あるいは南朝方を称して戦うことになります。足利尊氏と弟の直義が対立した観応の擾乱(1350)はその代表的なものです。足利一門として北陸の要である越前の守護に任じられていた斯波高経はこの時直義方となり、その後も将軍に対して向背定まらない行動をとっています。外来の守護である斯波氏は、国内に古くから土着している武士をまだ十分に掌握しておらず、こうした国内の不安定さが斯波氏の動揺をの原因と思われます。

 守護がめまぐるしく替わった若狭においては、遠敷郡などの国人たちは自分たちの力で動乱に対処しようと国人一揆を結び、1351年(観応2)11月には南朝に降った守護の代官を国から追い出しています。この一揆の目的の一つは、所領回復をはかって南朝方として活動していた若狭氏を排除することにあったと考えられます。このように地域の武士たちの利害の対立が、南北両軍の形式をとる争いを続けさせたのです。
  鉄製銀象嵌冑(伝新田義貞所用)  
 ▲鉄製銀象嵌冑(伝新田義貞所用)
 1656年(明暦2)に現在の福井市新田塚付近で掘
 り出されたもので、「元応元年八月」の刻字があ
 る。               福井市 藤島神社蔵
  新田義貞墓所
▲新田義貞墓所
丸岡町称念寺の境内にある。南朝方の将新田義
貞は、1338年(暦応1)閏7月2日に越前守護斯波
高経の配下の兵と遭遇して灯明寺畷で自害し、そ
の遺骸は時宗により吉田郡河合の往生院に運ば
れた。そのさい、義貞の近習は相次いで往生院や
長崎道場(称念寺)で出家したという。
                        丸岡町長崎
       新田義貞木像
       ▲新田義貞木像                丸岡町 称念寺蔵

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