7 中世の女たち(1)
 女性の自立性が失われつつあった16世紀の末においても、イエズス会宣教師のフロイスは、日本では妻が持っている財産を夫に貸し付けて利息を取ることがみられると記しています。中世は男女同権の社会ではありませんでしたが、室町期以前において女性はのちの時代とは違って、自分の財産に支えられて一定の自立性を保っていたのです。

 遠敷郡太良荘の末武名をめぐる鎌倉期後半の相論は、15年におよぶ藤原氏女と中原氏女という女性のたたかいが大部分を占めます。実際に名主として支配を行ったのは彼女たちの夫たちでしたが、名に対する権利の主体はあくまでも彼女たちでした。また1316年(正和5)に紛争となった三方郡常神浦の刀祢家の遺産についてみると、惣領の忠国が父の刀祢などの権限を継承しましたが、忠国の継母は「家内財宝」を、忠国の異母姉妹は大船・家屋・山とかなりの額の米銭を譲られていました。惣領が刀祢として社会において活動する権限と財産を引き継いだのに対して、女性たちは動産を中心とする「家内財宝」を譲られているところに、女性を公的活動から遠ざけようとする社会のあり方が示されています。しかし自立の基盤となる財産を女性が与えられており、同じころに小浜の金融業者「はまの女房」が活動しえたのも、このような財産が確保されていたからでしょう。
 大飯郡加斗荘黒駒社の例のように鎌倉期には女性の神主も知られますが、南北朝期になるとみられなくなり、女性の活動範囲はせばめられていきました。そうしたなかで戦国期には朝倉氏家臣の三輪氏の後室が南条郡抽尾の名田を支配して、跡継ぎの子と後見人を定めていますし、武田氏の家臣である粟屋宗閣の後室が伝えた所領は、代々女房衆が管理していたことも知られます。そのほか敦賀郡江良浦では、2人の巫女とならんで3人の後家が家屋の持ち主とされています。武家のみならず庶民の間にも家制度が形成されるようになると、幼い子供が成長し家を継ぐまでの間は後家が家を代表するものとされていたのです。

        如法経米銭寄進札

    如法経米銭寄進札    

    ▲如法経米銭寄進札
    若狭において如法経信仰がさかんであった
    ことを示すもので、鎌倉末期よりみられる。
    女性が寄進主である場合も数多く、写真は、
    女性が自らの現世安穏・後生善処などを願
    い、米・銭の寄進のあかしとして遠敷郡明通
    寺に奉納したもの。
                    小浜市 明通寺蔵
若狭国太良荘預所御々女書状
▲若狭国太良荘預所御々女書状
1362年(康安2)に若狭遠敷郡太良荘の預所であった御々女が、中世では「女手」といわれたかな文字でしたためたもの。鎌倉・南北朝期に荘園の預
所職や名主職をもっていた女性は自らの権利を強く主張しており、やがて御々女も近隣の松田知基の支援をえて預所職を回復する。
                                                                             京都府立総合資料館蔵

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