6 仏教の新しい動き(1)
          道元画像
          ▲道元画像
          月見の像と称されている。      大野市 宝慶寺蔵

          永平寺山門
          ▲永平寺山門
          寺名の由来は、中国年号の永平年間に仏教が中国
          に伝わったとの説による。
 日本曹洞宗の開祖として知られる道元は、1243年(寛元1)吉田郡志比荘地頭の波多野義重の招きに応じ、京都深草興聖寺から越前に居を移しました。越前入居の原因の1つとしては、足羽郡波着寺を一拠点とし、越前入居以前の1241年(仁治2)にすでに道元門下となっていた懐鑑らとのつながりが考えられています。

 道元は吉田郡吉峰寺と禅師峰を拠点に修行し、越前入居の翌年に吉祥山大仏寺が完成し、2年後には寺号を永平寺と改めました。この間、道元は『正法眼蔵』の著述・説示などを行っています。

 永平寺には近郷の人びとも参詣に訪れており、吉田郡河南荘中郷の人びとは、1247年正月の布薩説戒のさいに五色の雲が方丈の障子にたなびいたのを見たと伝えられています。ただ道元が「只管打坐」という姿勢を重視したため、永平寺は修行のための道場という性格を強く保ち続けました。やがて2代懐奘に次いで永平寺住持となった義介は、これらの点を革新しようとしましたが、三代相論と称される寺内の対立を生み、結局義介は永平寺を退院して加賀大乗寺に入寺しました。

 1278年(弘安1)に大野郡小山荘木本郷内に地頭伊自良氏らの外護をうけ宝慶寺が創建され、道元の宗風を伝えました。のちの義雲以降は、ほぼ中世を通じて永平寺住持は宝慶寺から入ることになっていました。また、坂井郡多祢村出身とも今立郡帆山出身ともいわれる、義介の弟子の瑩山紹瑾は、能登総持寺・永光寺の開山となり、曹洞宗が大きく展開する素地をつくりました。越前においても、南北朝期に総持寺2世の峨山韶碩の弟子筋にあたる梅山聞本が坂井郡竜沢寺を開き、また峨山の弟子通幻寂霊は1368年(応安1)に越前府中の龍泉寺の開山となり、同寺の門下から「十哲」と称される門弟を輩出しました。 
普勧坐禅儀
▲普勧坐禅儀
道元筆。坐禅の方法や心得を示したもの。     永平寺町 永平寺蔵
 通幻寂霊木像
  ▲通幻寂霊木像             武生市 龍泉寺蔵
                      武生市教育委員会提供  

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