5 海に生きる人びと(1)
 平安末期から鎌倉期にかけて、ふたつの崎(岐)ではさまれた「山野」「浜」「田畠」と漁場である地先の海を1つの所領単位とする浦が、海浜に多く成立してきました。

 浦の指導者は刀祢と称され、それ以外の人びとは百姓とよばれました。刀祢のなかには、三方郡常神浦刀祢国清(入道名)蓮昇のように廻船によりばく大な財産を蓄えた人もいます。浦の人びとは、地先の海では、1000人で曳いたといわれる惣中持ちの大網をはじめ、立網・曳網・打網といった網によって漁を行い、魚を中心とした「御菜」や苔・和布・鮨などを領主に納めました。やがて浦の人口が増加していくにつれ、生産拡大を図る必要が生じていきました。すると網を設置する網場をめぐって浦どうしの間でたびたび対立が生じ、領主による裁定が行われたり、また浦の有力者の個人持ちの網が増えたため「うちかえ」といい順番に網場を利用する方法が採られるなど、網場に関する調整が行われました。また三国の三ケ浦では、越中や能登などの国外へも漁に出かけました。戦国期の南条郡池太良では、小百姓も大網を所持するようになり、大百姓との間で相論となりました。
   刀祢の財産を示す文書(1316年)
    ▲刀祢の財産を示す文書(1316年)
    三方郡常神浦の刀祢国清(入道名蓮昇)は、廻船によってばく大な財産を築いており、娘の乙王女には「フクマサリ」という大船1艘・
    銭70貫文・米150石・屋敷・山・材木・小袖6・女3人・男2人を譲った。                        三方町 大音正和氏蔵
三方郡丹生浦の山と浜
▲三方郡丹生浦の山と浜
丹生浦は1424年(応永31)に隣接する竹波浦に売却した山の場所を示す指図を作成した。西方ケ岳・蠑螺ケ岳の中腹より上は「奥領」と称され、浦人
個々人の持分は山麓付近にあった。指図の右下の馬瀬(馬背)には製塩のための塩釜があると記され、また図中央下の丹生浦の浜には「雪の白浜」
という美しい名がつけられている。                                                            美浜町 丹生区蔵

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