4 日本海と海運(1)
 鎌倉初期には「海人」、鎌倉後期には「百姓」とよばれた浦に住む人びとは、廻船業にも携わりました。
 若狭では三方郡常神・御賀尾浦(神子)、遠敷郡多烏・矢代・志積浦などを拠点とした浦人の廻船活動が知られています。「泉太郎」「王増」「横増」「徳勝」「くらまさり」「フクマサリ」といった船を操った彼らのなかには、それぞれの浦の領主である日吉社・新日吉社・気比社や天皇家・賀茂社などの神人や供御人・供祭人となる者があり、領主に海産物を供納して奉仕することにより、領主からは関渡津泊における自由通行の特権を得ていると主張しました。
 また鎌倉末期に、北条氏得宗は若狭・越後・越中・加賀などの守護職を獲得して日本海の海上交通を掌握し、多烏浦の廻船人に過所船旗を与えて自由通行権を保証したり、関東御免津軽船20艘を組織したりしていました。
遠敷郡志積浦の廻船の活動を示す文書 遠敷郡志積浦の廻船の活動を示す文書
 志積浦廻船人は、鎌倉後期に坂井郡三国湊で阿須羽(足羽)神宮寺勧進
 聖により積荷の米6石を押さええられた。この文書は、この一件の解決の
 ため、志積浦沙汰人景延が源頼貞の命により三国湊へ赴いたことを示す
 もの。                           小浜市 安倍安延氏蔵

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