3 気比社と若狭彦姫社(1)
 11世紀の終わりころ諸国では国内の有力神社のなかから一宮を選び、朝廷や国ぐにの繁栄を祈念することが始まりました。越前では日本海の要津敦賀津に臨む国内最大の神社である気比社が、若狭では国衙からも近い若狭彦社が一宮になりました。

 気比社の神官としては祢宜・祝があり、管理・運営組織である政所には検校・行事・別当・勾当の役職がおかれ祢宜以下が就任していますが、古代以来の豪族である角鹿氏がそれらをほぼ独占していました。気比社は中世においては敦賀郡気比荘内を中心に多くの社領田地を持つとともに、古くは北陸の国ぐににおいてそれぞれ3町分(年貢米30石)が与えられていました。また敦賀郡の浦うらや、北陸諸国の神人からは公事として海産物が納入されています。この神人とは神仏に奉仕する人のことで、気比社の周辺に居住して神饌(神への酒食)を奉仕する炊殿や膳部の神人や、近江・若狭から北陸道にかけて散在した在国神人があり、在国神人は敦賀に宿・坊舎・室を持っていたと考えられています。 
気比社に対する年貢と公事
 ▲気比社に対する年貢と公事
 気比荘は綿・芋・苧・移花・薦・簾・黄皮・刈安なども公事として負担した。

 若狭二宮の若狭姫社とともに上下宮と称された若狭彦社においては、鎌倉期になると祢宜家が詳細な系図や絵系図を作成し、一・二宮に伝えられた独自の伝承や祢宜家の一族の系譜を後世に伝えようとします。系図によれば祢宜家は鎌倉期には婚姻関係によって若狭の国衙の役人であった遠敷郡の多田・池田・和久里・木崎氏や大飯郡の和田氏との結びつきを強め社領支配の安定化をはかっていますが、同時に幕府の重臣である三浦氏の女性を妻としています。モンゴル軍襲来の危機のなかで、幕府は若狭彦社にも直接に異国降伏祈願を命じるとともに、若狭彦社の修造を命じます。祢宜光景はこれに応じ、国衙や守護得宗北条貞時の支援のもとで、1286年(弘安9)より社殿の造営が始まりました。気比社が所領と神人を基礎に自立的な勢力を保ったのに対し、若狭彦社はこのように国衙や守護に依存するようになっていきました。
                若狭国鎮守一・二宮神人絵系図
若狭国鎮守一・二宮神人絵系図
▲若狭国鎮守一・二宮神人絵系図
神職の笠氏が一・二宮に奉仕する由緒ある家筋であることを後世に伝えようとして描かせたものと考えられている。この部分には、若狭に神館所を
求めて遍歴する彦神と笠氏の祖の節文が出合う場面と、若狭彦社の社地のようすが描かれている。                  京都国立博物館蔵

←前テーマ/→次ページ目次