2 抵抗する荘民(1)
 理非にもとづく公平な裁判を理念に掲げた執権政治の最盛期である1243年(寛元1)に、幕府は越前大野郡牛原荘と若狭遠敷郡太良荘における相論についてそれぞれ判決をくだしました。これらの相論から、承久の乱後における厳しい地頭の支配とそれに抵抗する荘民のすがたを知ることができます。

 醍醐寺円光院領牛原荘においては承久の乱後に北条時盛が地頭となり、真念が地頭代官に任じられると、荘内の警察・裁判権はすべて地頭に属すとして過酷な支配が行われていました。真念の非法は、醍醐寺の雑掌盛景が訴えたところでは85か条にも達したということです。この真念の手足となって荘民を責め立てていたのが重円法師でした。重円はもと浪人でしたが、文書を扱う才能があったため、醍醐寺方の荘官に任じられていたのですが、地頭に誘われて荘園支配の基礎となる文書を持ったまま地頭方の又代官となった人物でした。それで重円は荘民の怒りの的となり、1240年(仁治1)4月に醍醐寺の収納使に率いられた荘民たちは重円を殺害してしまいました。殺害に参加した荘民は幕府より流罪に処せられましたが、怒った地頭は荘民の家地・財産・田畠100町を没収しました。幕府の判決はこの没収を不当としています。それにしてもこの事件は、荘園内の対立が厳しいものであったことを示しています。

醍醐寺五重塔
▲醍醐寺五重塔
醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山。
大野郡牛原荘 大野郡牛原荘
 牛原荘は「絹の荘園」としての性格をもち、醍醐寺に対して布・綿・小
 袖絹などの絹製品を公事として納め、醍醐寺の経済を支えた。

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