1 国御家人たち(1)
 鎌倉幕府の勢力が確立すると、越前・若狭に土着していた武士たちのうちには、将軍源頼朝の家来である御家人となる者が現れました。この武士を国御家人といいます。若狭においては1196年(建久7)に頼朝の使者に御家人になろうとする33人の名前を一括して記した交名(名簿)を提出することで、国御家人として認められました。国御家人の平時の勤めとしては京都の内裏などの警護にあたる大番役があり、守護の催促を受けて順番に勤めました。
            若狭国先々源平両家祗侯輩交名案
            ▲若狭国先々源平両家祗侯輩交名案
            若狭の国御家人として認められた33名の武士の名簿。              京都府立総合資料館蔵

 御家人が頼朝から与えられる地位としては地頭がよく知られていますが、越前・若狭ともに土着の国御家人でこの地頭に任命された人は見いだせません。国御家人が荘園や国衙領のなかで保持していたのは、下司・公文・地主・名主という荘園領主や国衙が任免権をもつ権利にすぎませんでした。それで国御家人たちは荘園領主・国衙の圧迫や、その地の地頭の押妨に苦しめられ、所領を失う人も現れてきました。とくに承久の乱(1221年)の後は勝ち誇る関東御家人などの地頭によって、多くの国御家人の所領が奪われ、若狭では1245年(寛元3)には16・7人の国御家人が御家人役を勤めることができなくなったとされています。そこでこの年に若狭の国御家人たちは、幕府が前々年に発した御家人領保護令を手がかりに、所領の回復をはかる運動をおこしました。遠敷郡太良荘において、開発領主の子孫である雲厳の有していた末武名をめぐって、宮河乗蓮・藤原氏女の親子と中原氏女の争いが20年以上にわたって続けられたのも、この回復運動がきっかけとなっています。
若狭国の国御家人
  若狭の国御家人
  若狭国の国御家人としては、図中の黒字と緑字(ともに●)の33名が知られる。しかし
  13世紀中ごろには、赤字)で示したように所領を没収された国御家人が少なくない。
  他方で鎌倉期には、それ以外に遠敷郡松永の多伊良氏、同郡太良荘の若狭氏、大飯
  郡本郷の本郷氏などのように、他国から入部し勢力をもつようになる武士が現れる。

    黒字  1196年(建久7)の国御家人
    青字 1250年(建長2)の「得替次第」などの史料から所領を没収されたこと
         がわかる人
    赤字 「得替次第」に所領を没収されたと記される人    拡大図33KB

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