概観 中世
池田町水海の田楽能舞
▲池田町水海の田楽能舞  池田町提供
 越前・若狭は中世(12世紀後半〜16世紀後半)において、日本海海運の拠点となる湊である敦賀・小浜をもつことから、いぜんとして重要な地位を占めていました。とくに鎌倉期の日本海海運では、若狭の浦うらの海民が活躍していたことが注目されます。また越前は、都からみると北陸道の政治的・軍事的なかなめの位置にあり、平氏と北陸の叛乱軍との戦いや敦賀郡金ケ崎城をめぐる北朝方と南朝方の合戦は、越前を軍事的に確保する戦いでした。

 越前・若狭の内部に目を向けると、それぞれ古代に国府が置かれた府中から離れるにしたがって、坂井郡河口荘・大野郡小山荘・遠敷郡名田荘のように大規模な荘園がみられるのは共通しています。しかし中世成立期に土着武士として勢力を持っていたのが、越前では府中より離れた坂井郡から足羽郡を本拠とする越前斎藤氏であったのに対して、若狭では遠敷郡を中心とする武士たちであったという違いがあります。この違いは、おそらく両国の古代から中世にかけての耕地開発のあり方を反映していると思われます。これら両国の土着武士ともその主力が14世紀末までには没落し、越前では斯波氏、若狭では一色氏、ついで武田氏の守護支配が強化されていきました。越前では15世紀のなかばに長禄合戦とよばれる守護支配の主導権をめぐる戦闘がおこり、朝倉氏が勢力を拡大していきました。
遊行上人縁起絵
▲遊行上人縁起絵  京都市 金練寺蔵
 14世紀ころから貨幣流通経済は庶民のあいだにも浸透し始め、交通・運送網の発展にともなって、若狭遠敷市・越前金津八日市のような市がみられるようになり、やがて小浜・足羽三か庄(北庄)・今立郡水落・大野などの町が、従来からの敦賀・越前府中・三国とならんで繁栄します。これらの市・町は、周辺の人びとの生活に即した地域のなかの経済・文化の中心地でした。小浜はまた、戦国大名武田氏の城下町として国内の政治・経済・文化の集中する町となりました。越前では、戦国大名朝倉氏の城下町として一乗谷が発展してきました。朝倉氏は一乗谷を国内支配の政治的・軍事的中心地と位置づけましたが、同時に敦賀・大野・府中においては、それぞれの地域の独自性に配慮した支配組織をもっていました。

 越前・若狭においても、村落民は惣村に結集して年貢負担の増加を阻止したり、用水や山林などの生産条件の確保に努め、また宮座を通して村の祭礼を運営していました。若狭では、戦国期の村落民が密教寺院に供養を願って米銭を寄進する寄進札が多く残されており、寺社を支える庶民の比重が高まってきました。越前では、1471年(文明3)に坂井郡吉崎に下ってきた蓮如が、こうした村落民や商工業者のもつ宗教的な力を引き出すことに成功しました。ちょうどこの年は朝倉孝景が戦国大名の道を歩み始めた年でもあり、やがて朝倉氏は対立する本願寺派寺院を越前より追放し、布教を禁止しました。しかし朝倉氏の禁圧下でも耐えていた門徒たちは、朝倉氏時代の末期に朝倉氏が滅亡させられたあとは越前一向一揆として蜂起し、嶺北地域を支配下に置きました。この一向一揆は、1年半ののちに織田信長の激しい攻撃により潰滅します。中世後期に現れた戦国大名と本願寺一向一揆という対照的な2つの領国支配体制は、いずれも信長によって滅ぼされ、ここに中世も終わりを迎えました。

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