5 海に生きる人びと(2)
 また浜では、敦賀郡手浦や三方郡馬背、遠敷郡多烏・汲部浦などに塩釜がみえ、塩浜を整備して、製塩を行いました。三方郡・遠敷郡に伝わる多くの浦文書のうち鎌倉前期の文書には、燃料となる塩木を獲得する山の帰属に関したものが多いように、塩木山をめぐって浦どうしで争いとなることがしばしばありました。そして領主により山の帰属について裁定が行われたり、また塩浜の検注も行われました。塩は年貢として領主に納めたほか、「塩船」に積み越前などの隣国にも輸送して交易しました。

 鎌倉末期の三方郡常神浦刀祢の後妻が越前の女性であったように、浦の人びとは婚姻や養子縁組みを通じて、近隣の浦をはじめ国をこえた浦との間にも深い結びつきをもっていました。南北朝期の多烏天満宮造営のさいに矢代・阿納・賀尾(加尾)など若狭の近隣の浦から助成が寄せられたり、戦国期の常神社造営のさいには越前の大樟・小樟・梅浦からも奉加がありました。また戦国期には、若狭の常神・日向浦の浦人によって越前の河野・今泉浦にはまち網漁が伝えられました。わずかの平地や山裾で田地の耕作や焼畑といった農業を営み、製塩や、また漁業・廻船業にも携わるなかで、浦に住む人びとは海を通して他地域とも広く交流をもちつつ生きていました。
   遠敷郡田烏天満宮       浦が納めた美物の請取状(1526年)
   ▲遠敷郡田烏天満宮   小浜市田烏            ▲浦が納めた美物の請取状(1526年)
                                       浦から都の人びとや戦国大名に納められる美味の魚介類は
                                       「美物」と称され、珍重された。写真は三方郡御賀尾浦(神子)
                                       の請取状。                 三方町 大音正和氏蔵
   魚を料理する人
   ▲魚を料理する人
   室町期に遠敷郡松永荘新八幡宮に伝わっていたという「彦火々出見尊絵巻」の模本の一場面。海幸彦の庭先で魚をさばく人のか
   わらに、さまざまな漁具が描かれている。                                           小浜市 明通寺蔵

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