16 利仁将軍と北国武士団(2)
  鎮守府将軍・征新羅将軍になったということから、利仁は利仁将軍とよばれました。そして武勇優れた人というイメージが拡大していくと、「海路を飛ぶこと、翅在る人のごとし。以為へらく、神の人に化すか」(『尊卑分脈』)とさえいわれ、源頼光らとならんで、平安時代第1級の英雄とみなされるようになっていきました。

 彼の住んだ舅有仁の館の状況は、薯蕷粥の説話からうかがえます。そこでは多くの郎等(郎党)という従者や、薯蕷粥作りに従事した「下衆女共」「若き男共」を抱え、さらに近辺に住む農民を下人として支配していました。下人は「薯蕷を持参せよ」と命じられましたが、それは「人呼の丘」という塚の上から、大声で叫んで伝えられました。それでも1人1本ずつの薯蕷で、軒の高さほどの山ができたというからかなりの数です。それは声の届く範囲の人ですから、それより遠い所の「従者共の多さ思い遣るべし」です。さらに家や調度も立派で、帰京する侍は大量の衣服や、綾・絹・綿、それに鞍を置いた馬や牛までもらいます。その富裕の程が知られます。
越前斎藤氏の分布
▲越前斎藤氏の分布
 ここには越前敦賀に成長してきた有力土豪のすがたをみることができます。牛は耕作用でしょうから、多くの私営田を所有し、周辺の多数の農民を下人として支配し、繊維製品も彼らから収奪したり、交易で入手したのでしょう。もっとも、これは『今昔物語集』が成立した12世紀前半の在地領主のすがたを描いたともみられますが、こうした土豪と都の下級貴族出身者が婚姻関係を結ぶことにより、お互いの勢力の強化を図ったのです。そして彼らはその後も成長を遂げ、11世紀には武士として登場します。利仁の後裔からは越前斎藤氏が現れ、さらにそれが疋田系と河合系に分かれて発展していくのです。
藤原利仁より越前斎藤氏までの系譜       藤原利仁より越前斎藤氏までの系譜
          は滝口の武士になったことがある者、
          は源平合戦関連で討ち死にした者。
      おもに 『尊卑分脈』よる。 拡大図 61KB

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