11 絵図の語る荘園(2)
足羽郡道守村開田地図(天平神護2年10月21日) 部分
6棟の建物(地図(3)下中央)
「東大寺道守庄」、その隣に「丸部(わにべ)孫
麻呂家」の文字がみえる。建物は朱で塗られ
ており、重要施設であることを示している。地
図右上にも朱で塗られた5棟の建物がある。
渦を巻いて流れる川は味間川(日野川)。
足羽郡道守村開田地図(天平神護2年10月21日) 部分
百姓家(地図(3)中央右上)
道守荘に労働力を提供した百姓の集落を記し
たものと考えられるが、荘園の外にある。北を
流れる川は生江川(足羽川)で橋がかけられ
ている。
足羽郡道守村開田地図(天平神護2年10月21日) 部分
「寺溝上」の整備された水路(地図(3)下右)
開墾された田が集中し、坪付や、誰が開墾して
どういった経緯で荘園に組み込まれたが細かく
記されている。

 荘園図下部の荘域内には建物6棟が、また右上部の荘域外にも建物5棟がそれぞれ描かれています。前者はその右側に「東大寺道守庄」とあるように、おそらく経営拠点としての「荘所」の建物群と考えられるもので、6棟のうちの少なくとも2棟は高床式倉庫のように描かれています。後者は都に住む田辺来女が所有していたもので、文書には「屋二間、倉三間」との記載があり、後に東大寺に移管されて、荘所の一部として再利用されることになる建物群です。これら両建物群は、前者が味間川の自然堤防上の微高地に、後者も「加夫田山」山麓に位置しており、いずれも比較的安定した地が選ばれています。しかも、それぞれが味間川と生江川とに近接して、水上輸送の適地を選んでいるといえます。

 おおむね荘域内北半部に野地が広がっているのに対して、南半部には田地が集中しています。そして、荘域外の生江川左岸および味間川右岸の自然堤防を利用して畠地が分布し、とくに生江川左岸には一定の地域に集中して「百姓家」の分布もみられます。これらの百姓が賃租や雇傭労働の対象になったと思われますが、荘域内には百姓家がなかった点に古代荘園の特徴があります。

 荘域内の南半部には北半部と違い、「寒江」「寺溝」からの溝や「柏沼」に通じる溝などの水路が縦横に整備されていて、これらの溝の流域を中心に田地が広がっていますから、当時の開墾や耕作が河川や沼、池から水をひき、田から排水する水路の造成、整備と深く結びついていたことがわかります。このことは東大寺領荘園関係の文書のなかに、溝の開削計画書や水争いのものが数多く残されていることにも示されています。したがって、水利関係の土木事業を順調に推進することは、田地の開墾率や荘園の生産力を高め、さらには安定した荘園経営につながるわけですから、雇傭労働力の確保がいかに重要であったかがわかります。

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