12 対外交流の窓口(1)
 8〜9世紀に日本との交流が最も多かったのは、唐ではなく渤海でした。727年(神亀4)の初来日から919年(延喜19)までに、渤海使の来航が34回、遣渤海使の派遣が13回に及びます。唐・新羅との対立関係を抱えていた渤海の政治目的から始まりましたが、8世紀後半以降は貿易が中心になります。使者の往来には季節風と海流を利用したため、渤海使は日本海沿岸の各地に来着しました。日本海沿岸諸国は当時、対外交流の窓口でした。そのなかで若狭・越前が渤海と関わったケースの一端を紹介しましょう。

 762年(天平宝字6)、遣渤海使と共に渤海使王新福ら23人が来日し、越前国加賀郡に留まりました。来着地は不明ですが、10月1日から入京する閏12月19日までの3か月余を加賀郡で過ごしたのです。

 776年(宝亀7)には187人にのぼる渤海使一行が、暴風のため対馬への航路をはずれ、越前の沿岸に至りますが、舵・帆が壊れ漂流し、12月22日に加賀郡と江沼郡に漂着しました。この難破で141人が死亡しますが、大使史都蒙ら46人が翌年2月20日に入京を許されました。それまでの3か月間、越前に留まっていたのです。なお、この時溺死して漂着した30人の遺体を埋葬するように、政府は778年4月に越前に命じています。使節の往来には悲劇がつきものでした。

 この渤海使らを送る使節は、漂着のすえなんとか渤海に達し、同年9月に今度は渤海の送使にともなわれ、三国湊に着きました。前の2例は越前といっても現在の石川県にあたり、これが福井県内に渤海使が来航したことがわかる初のケースです。渤海使はその後3か月越前に滞在し、翌年正月1日の都での元日朝賀に参列しています。

 越前には直接来航しなくても、出羽や佐渡あるいは能登に来着したり、またはそこから出航するケースが多かったため、越前は使節が通過することになり、その時には彼らをもてなしました。あるいは渤海船の修理や新造をしなければならないこともありました。

 一方、若狭については、渤海使の最後の来航となった919年11月に、105人の使者が三方郡丹生浦に来航しています。政府は彼らを越前国松原駅(客)館に移すよう命じましたが、設備も待遇も悪いという渤海使の訴えにより、越前に改善を指示しました。松原客館は敦賀市気比松原に置かれた外国使を安置する設備ですが、当時すでにかなり荒廃していたことがわかります。

 渤海使は、861年(貞観3)から1684年(貞享1)まで用いられた宣明暦のほか、仏典などの大陸の文化・文物をもたらし、また応接にあたった官人と漢詩のやりとりをし、さらには日本と唐の中継貿易を行うなど、文化・経済面で大きな役割を果たしました。
渤海国5京と日本海推定航路  渤海国5京と日本海推定航路
 拡大図 38KB
 「越前国大税帳」730年
 ▲「越前国大税帳」(730年)
 渤海郡の使人を送る使らへ食料50斛(石)を支出している。帰国
 した遣渤海使一行が都に帰るまでの路次にあたる各郡も、加賀
 郡と同じように食料などを負担したことだろう。
                      複製 国立歴史民俗博物館蔵
                      (原品 宮内庁正倉院事務所蔵)  
 上京竜泉府の第一宮殿跡
 ▲上京竜泉府の第一宮殿跡
 基壇が残るのみだが、宮殿前の広場には日本からの使者
 (遣渤海使や送使)も参列しただろう。
                      敦賀市 川村俊彦氏提供
気比の松原
▲気比の松原
近くの松原遺跡では、渤海使と共に来る疫神を防ぐため鎮火儀礼が行わ
れていた。

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