10 文書の語る荘園(1)
 東大寺が越前国に荘園としての墾田地を求めて本格的に進出し始めるのは、749年(天平勝宝1)からのことです。この年は造立途上の東大寺大仏の完成にようやく目処が立ち、その造立・維持費用として東大寺に100町の墾田地が施入され、さらに墾田地所有の限度面積が4000町に決定されます。こうした中央での動きと連動して同年5月に、墾田地を確保するため東大寺からの使者たちが越前国を訪れ、閏5月には国司と一緒に大規模に占定作業が進められます。これらの占定地のほか、東大寺は足羽郡大領(だいりょう)生江臣東人(いくえのおみあずまひと)や坂井郡大領品遅(ほむち)(治)部君広耳(べのきみひろみみ)などの現地の郡司クラスの有力者から土地の寄進を受けたり、あるいは用地買収や土地交換などを行ったりして、8世紀の福井平野にはいくつもの東大寺領荘園が成立することになります。そして、坂井郡にあった東大寺領桑原荘に関する文書として、755年から59年にかけての4通の収支決算書をはじめいくつかの文書が残されています。これらの文書を通じて、当時の荘園経営の一端についてみてみることにします。

 桑原荘は、755年に、東大寺が都に住む貴族より土地100町を銭180貫文で買収して正式に成立します。成立時点での耕作可能な面積は全体の約3分の1ぐらいでしたが、東大寺はそれ以前から買収を見込んですでに開墾に着手していたこともわかります。また、桑原荘の経営拠点(「荘所」)には、荘園成立の当初6棟の草葺・板葺の建物群があり(翌年8棟)、そのまわりには垣がめぐらされていたようです。
「東大寺越前国桑原庄券第三」(越前国田使曾祢乙万呂解)  「東大寺越前国桑原庄券第三」
   (越前国田使曾祢乙万呂解)
 東大寺から田使として桑原荘の経営を命じられ
 て派遣された曾祢乙万呂の757年(天平勝宝9)2
 月1日の報告書。見開(開墾された田)42町のうち、
 この年度の開田(開墾田)は10町であるとか、収
 支決算はどうか、どのような建物があるかなどの
 記載がある。この報告書には、経営に参画してい
 た越前国史生安都雄足と足羽郡大領生江東人
 の署名がなかったため、東大寺は受理しなかっ
 た。
                奈良市 東大寺図書館蔵
                            

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