9 若狭の塩作りと漁業(1)
 若狭・越前は海に面し、漁業のさかんな地域で、海の幸は都にも運ばれました。8世紀の平城宮跡から出土した木簡のなかにも、若狭の漁業生活を物語るものが多くあります。

 各地の成年男子が、その国の特産物を律令税制の1つである調として都に運び込むさいに、荷につけた荷札が木簡のおもなものです。

 若狭の調は木簡によれば、ごく一部を除いて塩でした。つまり国中の男が塩を出していたのですが、調の品目が塩に限定されていることは、若狭の大きな特徴で、律令体制のもとで若狭が塩貢進国として重視されていたことがわかります。実際には製塩に従事していない人もいたのでしょうが、そういう人にも塩を出させているのです。

そのことは製塩遺跡にも反映しています。若狭湾沿岸には70か所以上の製塩遺跡が分布していますが、とくに8世紀になると遺跡数が急増するだけでなく、それまでは2000cc前後の容量であった製塩土器に、船岡式の1万ccにおよぶものまで現われ、きわめて大型化するのです。これは製塩業が自然に成長した結果ではなく、国家的な要請から生じた変化であるとみられています。製塩には多量の燃料や土器を必要とし、土器は女性が作る場合が多いので、調の名目的負担者である男性のみでなく、国中の女性もふくめた大規模な労働編成が国司や郡司によって行われたのでしょう。律令体制成立以前においても、若狭に置かれた屯倉は、塩の確保を目的にしていたようです。

 若狭の荷札には贄(にえ)の木簡も多くふくまれています。贄は天皇の食膳に進上する食品のことで、若狭は魚介類の干物や鮓などを出しました。贄は律令税制のなかにはふくまれていませんが、実際には多く貢進されていたことが木簡からわかりました。興味深いのは贄木簡はほとんどが青郷(高浜町)のものだということです。青の漁民は若狭のなかでも、特別な位置づけをされていたのでしょう。

       調塩木簡
    ▲調塩木簡
    3斗とは約24リットルである。
    平城宮跡出土
 土錘
 ▲土錘
 青郷比定地の近くから出土した漁網のおもりである。
 当寺の漁業活動を示し、長いもので9.7cmあり、奈良
 ・平安時代以降のものである。高浜町立石遺跡
                     高浜町郷土資料館蔵
若狭湾沿岸の製塩土器の出土分布  若狭湾沿岸の製塩土器の出土分布
 7世紀末から9世紀前半ごろの船岡式・傾式の製塩土器を取り上げた。岡津式は船岡式に
 ふくめたが、浜禰UB式など船岡式より古いとみられているものはふくめていない。越前は、
 船岡式・傾式段階と考えられる平底型と、傾式の製塩土器を取り上げた。『日本土器製塩研
 究』より作成した。 拡大図 30KB

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